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番外編 十六夜過去編

十六夜過去編 19

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 柊が通されたのは、幼少期を過ごした御殿ではなく、医療設備を備える研究施設ラボであった。
 慣れた伊吹の手で導かれるのではなく、見も知らぬ誰かの手を頼りに進むのは、ひどく不安で、神経を使った。歩幅も違えば、角や階段での誘導も違う。お互い、慣れない者同士では、これほどに勝手が違うのだ。
 わずかな段差や、床の材質の違い、扉がスライド式か、内外開きか――事前に何も判らず歩いて行くのは、たまらなく疲れた。
「ここだ」
 やっと、その十六夜秀隆の声が聞こえ、柊は、前を行く男の腕から、手を放した。
「……ここは、どこですか?」
 一々、そう尋ねなければ、何も解らない状況であった。誰も伊吹のようには、先さきに状況を伝えてはくれなかったのだ。
「無菌室の前だ」
 十六夜秀隆は言った。
「――無菌室? 《イースター》へ着いたのではないのですか?」
 裏切られたような思いだった。
 だが――。
「おまえの母が、ここにいる」
 十六夜秀隆の言葉は、全てを消し去るほどの衝撃だった。
「お母様が……?」
 十六夜秀隆の話は、こうであった。
 柊の母は、柊からの定期的な癌抑制因子の移植により、あの忌まわしい皮膚癌こそ発症していないものの、想定外の別の血液疾患を発症し、最早、骨髄移植による治療しか為すすべがないのだという。
 そして、骨髄移植を行うために、適合する白血球の型――HLA型を持つのが、柊である、というのだ。通常、兄弟間で25%、HLA型は両親から半分ずつ遺伝するため親子間では適合しないが、全くの非血縁者よりは適合の可能性が高い。そして、HLA型が適合していても、それは、判明している遺伝子情報の一部に過ぎないため、GVHD(拒絶反応)は起こる。
「そのために、僕をここへ……」
 骨髄移植を拒む気持ちがあった訳では、ない。ただ、それならそうと全て話しておいて欲しかったのだ。
 柊は、目の前にゆっくりと、手を伸ばした。
 一歩、二歩、足を踏み出すと、冷たいガラスの感触に、手が当たった。
 この向こうに、ずっと、会いたかった母がいるのだ。研究対象としてこの《イースター》で生み出され、十六夜秀隆の子を産み落とした、哀れな〈XX〉が――。
 だが、触れることも、話をすることも出来ないのでは、その顔を思い出すことすら、難しい……。
「……会えるのですか、お母様に?」
 柊は訊いた。
 滞在期間が一週間と言うなら、移植後、その短い期間で、母がこの無菌室から出られるとは思えない。
「今、死なせれば、二度と会えない」
 何よりも確かな宣告だった。
「……。解りました」
 柊は言った。
「骨髄の採取は、おまえにも大きな負担になる。痛みと出血でしばらくは動けぬだろう。一週間はみてあるが、明日には採取をする。今日の九時以降は絶飲食だ。全身麻酔だからな。麻酔中に吐くと、窒息死する。――あとの説明は、その男がする」
 ――勝手な父親だ……。
 柊は、何を言う気も起らずに、ただ、ガラスに手を当てていた。
 このガラスの向こうに、本当に母がいるのかどうかさえ、判らない。伊吹が側にいない今、柊にそれを判断するすべはないのだ。十六夜秀隆の言葉を信じる以外……。
 彼は――十六夜秀隆は、この母のことをどう思っているのだろうか。
 柊を《イースター》に連れて来てまで助けようとするのだから、やはり愛情があるのだろうか。それとも貴重な研究対象を失いたくないと――それだけの思いなのだろうか……。


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