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番外編 ドクター・刄
ドクター・刄 4
しおりを挟む司令部に戻り、薬品棚から整腸剤を犬の体重に合わせて三日分処方し、世友に渡すと、
「悪い! ちょっと行けなくなった。――おまえが持って行ってくれ」
と、世友は薬を押し戻し、
「恩に着るよ!」
と、刄の返事も聞かないままに、勝手に翻って行ってしまった。
「おい――っ!」
と、刄が呼びかけても、振り返る様子は微塵もない。
――ったく……。
手の中に残った整腸剤に、刄は不満と溜息を吐き出した。
今日は休暇だというのに、強引に犬の診察をさせられ、薬の処方――挙句の果てに、代わりにそれを持って行かされることになるなど……。
もちろん、休暇だからといって、特別な用がある訳ではない。それを、そのまま正直に世友に伝えたものだから、こういう結果になってしまったのだ。
――仕方がない。
あの子供たちが待っているのだから。
刄は再び溜息をつきながら、柳州の街へと足を向けた。
薬を渡して帰るだけなのだから、そう時間も手間もかからないだろう。一応、犬のエサは決まった時間に、決まった量だけをやるように教え、好き勝手な時間に、ねだるだけ食べ物を与えてはいけないことだけは伝えておかなくてはならない。もちろん、そんなに長く隠し通して飼えるわけはないだろうが。
市場から逃げて来たのか、捨てられていたのか、どういう経緯なのかは知らないが、動物がおもちゃではなく、生き物であることが解れば、世話の大変さも解るだろう。
刄がさっきの仔犬の繋がれた小屋の裏に着くと、子供たちはまだそこで、世友が薬を持って戻って来るのを待っていた。そして、戻って来たのが世友ではないと知ると、
「ほんと、世友はいっつも、こうなんだからっ」
と、生意気に唇を尖らせた。
刄はその子供たちに、エサを上げる時の注意を与え、薬を渡して立ちあがった。すると、
「――世友だ!」
小屋と隣家の隙間から、表通りを通り過ぎる車を見て、思玉が言った。
刄もすぐに振り返ったが、車はすでに小屋の向こうに姿を消し、裏通りからは見えなくなっていた。
「見間違いだろう。こっちに来る用があるのなら、ついでに薬くらい持って――」
「絶対、世友だった」
「……」
思玉の言葉は頑なで、刄もそれ以上張り合うつもりもなく、そこで言葉を終わらせた。
見間違い――ではなかったのなら、何故、世友はここを通るのに、薬を届ける役を刄に押し付けて行ったのだろうか。――いや、思いがけず、こっちに用が出来たのかもしれない。
だが、それなら、通りすがりにでも、何か一言声をかけて行っても良さそうなものだ。
世友の不可解な行動に、刄は釈然としない思いで瞳を細めた。
何か厄介なことを抱えているのかも知れない――そんな気がした。
刄がそうして考えていると、
「先生――。軍には『ドクター・刄』って呼ばれるお医者さんがいる、って本当?」
と、思玉の隣に立つもう一人の子供が、大人たちの話で聞きかじった噂の真偽を問うように、大きな瞳を持ち上げた。
「――。それは……」
何と言えば良かったのだろうか。
本当だと――。
それは自分の呼び名である、と――そう応えれば良かったのだろうか。
「国の悪口を言ったら、拷問にかけて、殺すんだって。――聞いたことある?」
と、興味津津の眼差しを向ける。
きっと、その名前がどれほど冷酷な意味を持つものなのかも、知らないのだろう。大人たちの話しに興味を持ち、たまたま軍の医官を前にしたものだから、聞いてみよう、と思ったに過ぎないのだ。
「……世友に訊くといい」
刄は言った。
「聞いたけど――。世友は知らないって。見たことも聞いたこともないって――。だから、先生なら知ってるんじゃないかと思って」
期待を込める眼差しだった。
「……。そんなことを聞いて、どうするんだ?」
刄は訊いた。
「どう、って……。いるの?」
瞳が少し、不安げになった。
世友のように、刄がすぐさま否定しなかったせいかも、知れない。
「いないよ……。ただの噂だ」
刄は言った。
子供たちの表情が、ホッと緩んだ。
悪いことをするとドクター・刄の処に連れていかれて、とても恐ろしい目に遭わされる、とでも聞かされているのかもしれない。
存在してはいけない――存在しない方がいい医者なのだ、ドクター・刄は……。
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