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XX Ⅰ
XX Ⅰ-56
しおりを挟むコンコン、と軽いノックが、二度、届いた。それに応えると、クリスと菁、そして、桂の三人が姿を見せた。
あれから二時間以上経っているのだ。三人が様子を見に来るのも当然のことであっただろう。
「司の具合はそんなに悪いのか、ドクター.刄? いくら待っても戻って来ないから、心配で……」
クリスが言った。桂も暴れ疲れたのか、すっかりおとなしくなっている。――いや、ぐったりとしている。
「いえ……。原因が判らなかったので、しばらく様子を見ていただけで……。恐らく、夏バテかと」
少し視線を逸らして、刄は言った。
司はベッドの中で眠っている。――いや、目を暝っている。気分も、決して落ち着いた訳ではないだろう。多分、罪悪感、と呼べるものもあったのだ。もしかしたら、司のおなかの中にいるのは、クリスの子供かも知れないのだから。半身不随となり、もう一生、司を抱くことの出来ないクリスの……。そのクリスの子供であるかも知れない胎児を、司と刄は始末することに決めた。でなければ、司の心の方が耐えられなかった。十カ月もの間、自分の体の中で子供を育てる、ということも、その子供がだんだん成長し、自分の体が変化して行く、ということも……。
「そうか……。大したことがないならいい。――司の側にいてもいいかい、ドクター.刄?」
クリスが訊いた。
「は……。眠っておいでですが」
「ああ、起こしたりはしないさ。きっと、夏バテだけでなく、ぼくにも責任があったんだ……。無様に生き残って、こんな体になったことで、司には随分、嫌な思いをさせた……。憤りを打付け、やり場のない思いを打付け……。それでも司はぼくと結婚する、と言ってくれた……」
「……」
「何もしてやれないのなら、せめて、側についていてやりたい」
何もなかった頃なら、きっと優しいだけの言葉であっただろう。
だが、子供が出来た、と知った司には、全てが凍りつくような言葉であったに、違いない。クリスの言葉が優しければ優しいほど、そのクリスの子供であるかも知れない胎児を殺そうとしている自分を、追い詰めて行く……。
「私も司の側にいたいのは山々だが……今は、ドクター・刄――君と話をしたい。――時間はあるかい?」
菁が訊いた。その瞳は、全てを見透かすように、鋭かった。
「……ええ」
「何だい、二人で? ここでは話せないことなのか?」
クリスが眉を寄せて、車椅子の上から、菁を見上げる。
微妙な空気が、部屋に、落ちた。
「君に気を遣ってやっているのさ。私が引き下がるのは、これが最初で最後だ、クリストファー。ドクター.刄を連れて部屋を出てやるから、感謝することだ」
そう言って、菁は刄を促し、部屋を出た。
「フッ……。大した自信家だ」
苦笑を零し、それでも心に蟠りを残しながら、クリスはベッドの傍らへと、車椅子を進めた。
司は静かに呼吸を繰り返している。
顔色が少し、悪い。
「……ぼくのせいだろう、司? 自分でも判っている。ぼくが君を追い詰めた。そして、苦しめた……。耐えられなかったんだ……。こんなに君を愛しているのに、ぼくはもう、君を幸せにすることが出来ない。きっと、菁の方が君を幸せに出来る。彼は健康で、君を抱ける。君を喜ばせることも出来る……。だが、ぼくは足も動かず、君を満たすことも出来ない……。それでも愛しているんだ……。菁よりも、ずっと君を愛している……」
クリスは、司の眠りを妨げない声で、静かに言った。
生き残ってしまったことを、良かったと思えた日は、まだ一日も、ない。良かったと思ってはいけない、とも思っている。
この二月、色々なことがあり過ぎたのだ。イギリスにいる父、ロード.ウォリックと喧嘩をし――不自由になった体のことと、イギリスへは当分帰らない、ということを伝えたせいで、それについての諍いが長く続いた。ロード.ウォリックの怒りは司にも向き、不自由になったクリスの体のことで、司を酷く責め立てた。本当に悲惨な状況だったのだ。
「……父の言ったことは気にしないでくれ。ぼくがこんな体になってしまったのは、もちろん君のせいではないし、逆に、君は――君とドクター.刄は、ぼくの命を助けてくれた恩人だ。たとえ、ぼくが死にたがっていたとしても……。子供が出来ないことも、関係ない。ぼくは、君との結婚を決めた時から、子供が欲しくなったら養子をもらう積もりでいたんだ。――本当にすまなかった、司……。これ以上、君を苦しめないためには、ぼくはどうすればいいんだ? 君に甘えて、君と結婚してしまえばいいのか? それとも……やはり、菁に譲った方がいいのか? プライドを捨て、君を見守り、愛せるだけで幸せだ、と思わなくてはならないのか……? ぼくにはもう何も判らない。ぼくは……悔しくてたまらない……。悔しくて、悔しくて、たまらないんだ、司……」
クリスは動かない足の上で頭を抱え、やりきれない思いを繰り返した。
人前では言えない言葉を――。
司が目醒めでいる時には、口に出せない心を――。
毛布が震えていたのは、クリスの体が震えていたせい、だけだったのだろうか……。
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