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XX Ⅰ
XX Ⅰ-43
しおりを挟む「もう大丈夫だ、桂。――シャワーを浴びて来る」
桂を抱く腕を解き、刄はベッドを降りて、バスルームへと向かった。が、桂は目を瞠って、刄にしがみついて来る。
「うーっ! うーっ!」
「桂――」
「あっ! あっ!」
一人にされることに脅えて、すがりつく。
「……。シャワーだと言っただろう? 同じ部屋の中だ。あのドアの向こうにいる」
「う……」
「さあ、手を離すんだ」
「……」
桂は頑ななまでに、手を離さない。
その姿に込み上げたのは、苛立ちだった。
「いい加減にしないかっ、桂!」
刄はきつい口調で叱り付けた。
その一喝に、ビクンと桂の肩が跳ね上がる。臆病な仔リスのように、怖々と刄を見上げて脅えている。
「あ……悪かった」
その言葉にさえ、後ずさる。
「怒鳴る積もりはなかった……。君が悪い訳じゃない。嫌な夢を見て気が立っていたんだ……。一緒においで」
脅える桂に、刄は静かな口調で手を伸ばした。
桂の表情が柔らかく解ける。
いつも同じことの繰り返し、なのだ。もちろん、そうして生きて行くことを決めたのは刄であり、そうして生きて行けない訳では、ない。そして、桂は、そうしなければ生きては行けないだろう。
少し目を離すと、あっと言う間にどこかへ姿を消してしまっている司とは正反対に、桂は絶えず刄の側にくっついて来る。まるで、そうしなければ刄がどこかへ行ってしまう、とでも言うように――。司はその逆だった。どこへ行こうと必ず刄がついて来る、というように、また、必ずそこで待っている、というように、信頼しきって勝手気ままに駆け回っていた。そして、刄は必ず司の後に続き、また、その場で待っていた……。司が必ず戻って来ると信じ、決して手の届かないところへは行かないと信じて……。
唇を歪め、刄は自分で壊してしまった信頼関係に、自嘲を零した。そして、その思いを振り払うように、バスルームへと翻る。
すると、部屋の電話が鳴り出した。
「はい、刄……」
と、足を止めて、ベッド・サイドの電話を取る。
「香港のクリストファー様からお電話が入っております」
使用人が、相手を告げた。
「クリストファー様から?」
「はい。お繋ぎしますか?」
「ああ」
電話はすぐに繋がった。
だが、相手は何も言わない。
「もしもし? クリストファー様?」
「……」
「もしもし? 刄です。――クリストファー様?」
切れている訳では、ない。ただ、何も言わないのだ。
「もしもし――」
「来……」
微かな声が、耳に届いた。
「クリストファー様? どうかなさっ――」
「来て……くれ……。今、すぐ……」
弱々しい声だ。
「クリストファー様……?」
「も……ぼくには……無理……。司を……守っては……やれなかった……」
「司様? 司様に何か――」
「来てくれ……ドクター……刄……。ぼくは……足手まとい……だ……。何も出来な……。君なら……。頼む……。人に頭を下げるのは……これが初めて……だ……」
「……」
「早く……」
「私は……私は香港へは……」
刄は凍りつく喉を開いて、指を結んだ。
傍らでは、桂がきょとんと首を傾げている。眠っている時ならともかく、目を覚ましている時の桂を置いて出掛けることなど、出来は、しない。
「ドクター・刄……。ぼくは……も……結論を……出した……。『To be or not to be』
……後は……君に……任せる――」
ガチャン――と、そこで、電話は切れた。
「クリストファー様? もしもし! クリストファー様!」
返事も何も、返らない。
『To be or not to be――生きるべきか、死ぬべきか』
ハムレットの中の台詞である。
なら、クリスはどちらの宿命を選んだ、と言うのだろうか。生きるべきか、死ぬべきか、彼はどちらの結論を出したと――。
刄は汗の滲む手で、受話器を、置いた。
「あっ、あっ?」
桂が顔をのぞき込むようにして、電話の内容を問いかける。
「俺は……俺は、もう結論を出したはずだ……。生涯、嘘をつき通すと……」
「う?」
「桂……これも、まだ夢だろう……?」
狂ってしまった方が、ずっと楽だったに違いない……。
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