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キメラ - 翅
翅の産卵 4
しおりを挟む驚きと恐怖を焼きつける悲鳴が上がった。
見れば、血飛沫を噴き上げる同僚を見て、研究員の一人が叫んでいる。
「所長――っ」
言葉は続かず、振り上げられた銀光に、瞬く間に顔から胸まで切り裂かれる。
再び血飛沫が《ゆりかご》を染めた。
突然のその凶行は、《chimera-翅》の最後の足掻きのようにも見えた。この研究所の人々への復讐のように――。
だが、銀色に輝く鋭いメスを、髪を振り乱して走らせているのは、さっきまで虚ろな目でぶつぶつと呟いていたゲルトルーデだった。最早正気の眼光ではなく、ギラギラとした目を見開いている。
カシャン、と床に、メスを収めていたケースが落ちた。三本のメスが入っていたのか、さっき取り上げられた一本を除き、今握っている一本の他に、最後の一本が床の上でくるくると回る。
研究員の一人が、咄嗟に床のメスに手を伸ばした。――が、慌てて刃の方に触れてしまい、
「痛っ!」
と声を上げたすぐ後に、ゲルトルーデのメスが降り降ろされた。
「わあああ――っ!」
すでに《ゆりかご》は血の海だった。
残った研究員は《ゆりかご》の外へと逃げてしまい、残るはエディ一人になった。
まるで匂いでも嗅ぎわけるように、ゲルトルーデが部屋の隅にいるエディの方へと視線を向けた。
その顔は返り血で真っ赤だった。
――逃げなくてはならない。
それはすぐに判断出来た。
だが、エディはドアから一番遠い位置にいて、逃げるとすれば、中心にある寝台を回り込んで、ドアまで行かなくてはならない。
ゆったりとした広い部屋が、今は果てしない空間に見える。
エディは静かに立ち上がり、ゲルトルーデを刺激しないように、一歩、足を踏み出した。
自分の鼓動で、耳が聞こえなくなりそうだった。
椎名もエルヴィラもまだオペの途中だろう。二人が言ったように、《ゆりかご》から出ていた方が良かったのかも知れない。
だが、どうしても目を逸らしてしまうことが出来なかったのだ。二人の運命からも、自分の運命からも……。
エディが動いた方向を見て、ゲルトルーデの足が前へ進んだ。躊躇うこともなく、考えることもない足取りである。
「もう少しだから――」
エディは言った。
もちろん、ゲルトルーデに向けた言葉である。
「もう少ししたらオペも終わって、あなたの体の中の卵の摘出オペをしてもらえるから――」
今のゲルトルーデは、自分を見捨てた人間たちを恨んでいるに違いない。だから、そうではないと判れば――。
「ドナのオペの方が緊急を要したんだ。出血もひどかったし、すぐに輸血と縫合をしないと助けられなくて――。だから、それが終わったら、パパもエルヴィラもここに戻ってくるから」
足を止めてエディは言ったが、ゲルトルーデには聞こえていないようだった。どんどんエディの方へと近づいて来る。
エディは寝台の下を滑るようにくぐり抜け、ドアへと真っ直ぐ駆け走った。
だが――。
――開かない!
さっきの研究員たちが、鍵をかけて行ったのだ。ゲルトルーデを外に出さないように。
もちろん、エディのことなどこれっぽっちも考えてはいなかっただろう。十年も前の実験結果がどうなろうと、『人間の命』より大切なものはないのだから。所詮、エディや《chimera-翅》は、マウスやモルモットと同類なのだ。
ガチャガチャと音を立てるだけで開かないドアを諦め、エディは向かって来るゲルトルーデを躱して奥へと逃げた。
無論、ゲルトルーデは諦めない。すでに狂っているのだろう。
逃げ回り、追いかけられる空間の中、床の血糊に足を取られ、エディはその場に転んでしまった。
メスを振り上げたゲルトルーデの影が、エディの上にのしかかる。
――殺される!
エディは最後の刹那に目を瞑った。
一瞬で幕が降りるのだろう――そう思ったが、目を瞑ると時が緩やかに進むのか、中々その時は訪れなかった。それどころか――、
「あ……」
と、戸惑うような声が耳に届いた。
そして、カラーン、と金属が落ちる高い音。
エディはゆっくりと目を開いた。
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