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キメラ - 翅

キマイラとヒュドラー 4

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「――で、その逃げ出して来た実験体――サンクは安全なところにいるの?」
「ああ。俺が戻るまで外に出ないように言ってある」
 すでに九時半を回った時刻――。
 椎名はドナの案内で、JNTバイオメディカル研究所の一棟を歩いていた。
 もちろん、本来ならこんな時間に残っている者はそういない。時には変わり物のように言われてしまう学者でも、休息や家族は必要なのだ。
 それなのに――。
「あの照明が点いているユニットがゲルトルーデの研究施設よ。遺伝子操作の段階で発生した特殊な生物が外部に漏れることがないよう、建物自体が別になっているの」
 これは、ドナは知らないことだが、椎名は以前にもその説明を、元研究所の所長テイラーから聞いている。
 人工的遺伝子操作には非常な危険が伴い、人工的にDNAの組み換え実験を行っている際に、たまたま強い毒素を作る菌や、発癌性をもったウイルスが発生したりして、実験者に感染、その実験者から外の人間に次々に感染して行く危険もあるため、特に霊長類のDNA組み換えの際は、厳重な管理が要求される、ということだった。
 他にも、それらの技術が誰かに盗まれ、戦争や犯罪に悪用されたり、組み換えDNA実験の際に出来た思いもかけない『特種生物』が、その実験室から逃げ出して、生態系のバランスを崩してしまう……などという危険があるために、こうしてユニットを隔離しているのだ。
「あそこではいつもこんな時間まで?」
 誰かが残って明かりが点いている様子を見て、椎名は訊いた。
「あら、私が一人身で寂しいからって、いつもこんな時間まで一人残って、あのユニットの様子を見ているとでも思ったの?」
「いや、そういう訳じゃ――」
 ドナの言葉に、椎名は慌てて首を振った。
 もちろんそれはドナの単なるからかいで――。いや、そうだろうか。その言葉には、微塵の恨みごとも入っていなかっただろうか。
 十年前のドナは、父親が院長を務める精神病院で働いていた椎名に好意を抱き、結婚すら望んでいた。
 そのドナの気持ちを知りながら、椎名は――いや、知っていたからこそ、必要以上に優しい言葉をかけるでもなく、結婚はしない、と突っぱねて来た。
 そのくせ、自分が頼りたい時だけ、こうしてドナをあてにして来るなど……。
「生物実験施設のフロアでは、窓は廊下にしかないわ。室内の様子は判らない。でも――」
「――でも?」
 後ろめたさを感じながらも、それでも自分の都合を優先してしまう。
 一言も、勝手な自分を弁解するでもなく。
 男はいつも甘えているのだ、きっと。
 何も言わなくても、こうして以前のままに話が出来るのなら、自分は許してもらえているのだと――。
 シューッ、とスプレーの噴射が目の前に吹きつけられたのは、その時だった。
 もちろん、最初は何なのか判らなかったが、激しい目の痛みと鼻腔の刺激痛、喉にまで瞬時に痛みが広がり、目を開けることはもちろん、声を上げることも出来なかった。
 ただその痛みに顔を抑え、屈み込むだけである。
 ――催涙スプレー。
 このアメリカではごく一般的なものである。
 至近距離なら、〇.五秒噴きつけるだけで、相手を反撃不能にするには充分だ。しかも効果は三、四〇分は持続する。
 涙や咳が止まらないまま、椎名は粘膜の痛みに顔を歪めた。
「これなら、あそこに入れるわ、リョウ。出してもらえるかどうかは判らないけど……」
 そんな寂しげなドナの声だけが聞こえていた。
 椎名はドナに捕らわれたのだ。
 十年前の実験には、この研究所の所長だけでなく、ドナの父親、ウォーレス院長も関わっていたのだから、こうなる危険もあったのかも知れない。
「ごめんなさい。父を犯罪者には出来ないの……」
 このことで、ドナを恨むのは筋違いなのに違いない。
 椎名はドナに甘え過ぎていたのだから。
 今まで椎名がドナに取って来た態度からすれば、仕方のないことだったのだろう。
 ――サンクはホテルで大人しくしているだろうか。
 ――エディは……。
 ドアが開く音と、数人の足音が聞こえ、椎名の周りを取り囲んだ。
「生きていたなんて、ね、ドクター・シーナ。テイラーの話では、あなたも、オリジナルの《Hydra》も、死んだということだったのに……」
 聞き覚えのない声だったが、恐らく、この研究所の新しい所長、ゲルトルーデ・オルフのものだっただろう。
 落ちついた声ではあるが、テイラーへの苛立ちと憤慨が読み取れる。
 そんな中、幸いなことは、スプレーの効果が切れるまで、椎名には何も話せない、ということだった。
 だが、それもわずか三〇分間のことだけ――。
 その前に……。


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