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ヒュドラ― - 蛇
九頭の蛇 2
しおりを挟むその置物が目に付いたのは、JNTバイオメディカル研究所の受付に、ウォーレス院長から預かった封筒を手渡した時だった。
受付のカウンターのすぐ脇に、珊瑚に九頭一尾の蛇をあしらった飾り物が置いてあるのだ。そう大きな物でもないが、神話の姿で釜首を擡げる伝説の水蛇は、不死の怪物に相応しい異形の姿で、見るものを脅かすように睨んでいた。
――頭がいくつもある蛇……。
ふと、あの日のエディの言葉が脳裏を過った。あの日、エディは確かにそう言ったのだ。
「この置物は君のかい?」
椎名は、九つの頭を持つ水蛇を垣間見ながら、受付の女に問いかけた。
「いいえ、まさかっ。蛇は一番きらいな生き物ですわ」
受付の女は、たちまち顔色を変えて、首を振る。
世間一般、蛇が好き、という人間はあまりいない。それでも、彼女の頬が紅く染まっているのは、いつもは見かけるだけで口など利いたこともない秀麗な青年が、目の前にいるせいだっただろう。
「こんな置物、前からここにあったかな?」
椎名は続けて問いかけた。
「ええ、ドクター。四年前、スイスの製薬会社と合併した時、これはとても面白い生物だから、と、新しく来られた研究所長にいただいて」
「そう……」
気にも掛けていない時には、目に付かないものなのだろう。気にしていない、は、存在していない、と同じなのだ。
「珊瑚で出来ていて、とても高価なものらしいんですけど……」
「だろうね。今まで気が付かなかったよ」
椎名は言った。
「何が面白いのか判ります?」
「え、さあ……。これは実在する生物じゃないし……」
「そうですよね。第一、蛇なんて気味が悪いだけで。――精神病院の先生なら、これを面白い、っていう人の心とかも分析なさったりするんでしょう?」
受付の女は、お喋りを楽しむように問いを並べた。
「いや。そういう分析はしないよ」
「そうなんですか?―― でも、所長室には、もっと大きな蛇があるそうですよ。余程お気に入りなんでしょうね」
「……」
所長室……。
その言葉を、心の中で繰り返した時だった。
「学者とはそういうものだよ。普通の人間が気味悪がるものでも、丹精込めて可愛がる。カタツムリでも、ミミズでも」
不意に、後ろから声が届いた。
椎名は、ハッとして後ろを振り返った。
そこには、六十近い年の、太い眉をした紳士が立っていた。
「あっ……。テイラー所長」
受付の女が慌てた様子で口を噤む。
――テイラー……。
その名前は、椎名にも聞き覚えがあった。実際、会うのは初めてだが、ドナから名前だけは聞いている。
「構わんよ。学者にとっては我が子のように愛らしく、興味深い研究対象であっても、お嬢さん方には見ることさえ悍ましいものがたくさんある」
テイラーは、表面だけは理解を示す顔で、優しげに言った。
「ここで蛇の研究を?」
カウンターにある九頭の水蛇の置物を垣間見ながら、椎名は訊いた。
「いいえ。これはギリシア神話やアンデルセンの御伽話に登場する架空の怪物ですよ、ドクター.椎名」
言葉と共に、舐めるような視線が絡み付いた。
「……私のことを?」
「もちろん、存じていますよ。我がJNTの研究所一の美人、そして、有能な学者たるドナ・ウォーレスを独り占めしていらっしゃる羨ましい方だ。多くの男性研究員が嘆いていましたよ」
「……」
「それに、あなたの病院の院長で、彼女の父君たるドクター.ウォーレスからも、よき後継者として君のことを聞かされている」
「ウォーレス院長から……」
彼ら――テイラーとウォーレスは、そんな話をするほどの間柄なのだ。
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