氷魚を飼う水槽 §社会倫理を逸脱した遺伝子実験は……§【完結】

竹比古

文字の大きさ
上 下
6 / 83
ヒュドラ― - 蛇

謎の少年 3

しおりを挟む
「――。ふざけるな。冗談はそれくらいにして、バス・ルームへ行くんだ。服を貸してやろう。陽のある内はともかく、夜はそれでは寒いだろう」
 刹那、その表情に胸を突かれながらも、椎名は冷然と言葉を並べ、バス・ルームへのドアを示した。
「ぼく……病院から逃げ出して来たんじゃ……」
 うつむきがちに、少年は言った。
「では、その検査衣は何だ?」
「……」
「服はどうした?」
「……ない」
「見れば判る。――靴は?」
「ない」
「つまり、君は何かの検査の時に、病院から逃げ出して来た訳だ。――担当のドクターの名前は?」
「……」
「どうせすぐに判る。――さあ、バス・ルームに行け」
 黙り込む少年の背中を押し、椎名はその少年を左手のドアの中に押し込んだ。
 ハムレットに『尼寺へ行け』と言われたオフェリアほどの哀れさではないが、少年は戸惑うようにしながら、黙ってそれに、従った。
 しばらくして、シャワーの音が聞こえ始めた。それを耳に留め、椎名は服を取りに奥の部屋へと足を向けた。
 クロゼットの中を探り、適当なセーターとボトムを選び出す。あの少年にはかなり大きいだろうが、ないよりはマシである。それを手にバス・ルームへ戻り、ポイと中に放り込む。
「――ったく……」
 溜め息が、零れた。
 重度の精神異常者から、軽度の患者までを収容し、治療に当たる大規模な精神病院では、受け持ちの患者以外、そう気にかけることもない。気にかけていられない患者数なのだ。
 自分が精神病であるという自覚のない精神病者から、自分が病気であると思い悩む神経症患者まで、さまざまな人間がその空間に蠢いている。
 社会に適応出来ずに疎外され、病院と名を変えた牢獄に隔離される彼ら――精神異常者は、いつの世も何処かに閉じ込められて暮らしている。そして、常識コモンセンスから逸脱した彼らは、中々正常への道を辿ることが出来ない。さらに堅く心を閉ざし、自分の中に閉じ籠もって行く者もいる。
 向精神薬による治療の効果も含めて、以前のように一生を精神病者として過ごすことは少なくなっているとはいえ、分裂病や躁鬱病の二大精神病はもとより、精神病質、神経症、精神薄弱、心身症、自閉症、ダウン症……病に犯されている者は少なくない。特に、両親が子供を精神病だと認めたがらず、その症状が酷くなるまで病院に連れて行かず、医師に診せることが遅れるのはしばしばだ。
 煙草を手に、シャワーの音を聞く時間、待っていた電話が鳴り出した。
「イエス、椎名」
 そう応えた耳に届いたのは、再び眉を寄せる言葉だった。
 院内を調べた結果、やはり脱走したり、行方不明になったりした患者は一人もおらず、消灯時にそれぞれの病棟の看護師が見回った時も、姿の見えない患者は一人もいなかった、というのだ。つまり、あの少年――椎名の車に忍び込んでいた少年は、患者でも精神異常者でもなく、椎名が保護する必要など全くなかった、ということに、なる。
「……そうか。ありがとう」
 短い言葉で電話を置き、椎名はバス・ルームへと視線を向けた。
 まだ水音は続いている。
 病院から脱走して来た訳でもなく、検査衣姿で車に潜んでいた謎の少年――。彼は一体、何者である、というのだろうか。どこか別の病院から逃げ出して来たのか、外来の患者なのか……。身元が判らない限り――彼が話してくれない限り、後は警察へ届けるしかない。
 シャワーの音が、止まった。
 少しして、ダブダブの服を身につけた少年が姿を見せる。大きいセーターの襟は肩までズリ落ち、袖は指が全く見えないほどに、ダラリと被って垂れ下がっている。ボトムも腰で止まらないのか、何度もセーターに隠れた指で持ち上げ、長過ぎる裾を引きずっている。
「ミスター……」
 まだ雫を落とす金髪のままで、少年はペタペタと――いや、ずるずるとボトムを擦りながら歩いて来た。
 溜め息が、零れた。
「――ったく、何をしているんだ。袖も裾も折り曲げて着ればいいだろう? それに、ご丁寧に頭からシャワーを浴びたのか?」
 ソファを立ち、椎名は呆れ顔で少年の元へと足を向けた。
「コックを押したら上から水が……」
 少年は、身振りまでつけて、受け応える。
「それなら頭を拭いてから出て来ればいい。せっかく着替えても、それでは風邪を引くだけだ」
 椎名はバス・ルームからタオルを取り出し、少年の頭に投げつけた。
「ぼく、濡れたままでも平気――」
「こっちはごめんだ」
「……」
 その椎名の言葉に、少年はタオルを受け取り、袖口から出した白い手で、濡れた髪をゴシゴシと――黙々と一生懸命ふき始めた。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

基本中の基本

黒はんぺん
SF
ここは未来のテーマパーク。ギリシャ神話 を模した世界で、冒険やチャンバラを楽し めます。観光客でもある勇者は暴風雨のな か、アンドロメダ姫を救出に向かいます。 もちろんこの暴風雨も機械じかけのトリッ クなんだけど、だからといって楽じゃない ですよ。………………というお話を語るよう要請さ れ、あたしは召喚されました。あたしは違 うお話の作中人物なんですが、なんであた しが指名されたんですかね。

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

8分間のパピリオ

横田コネクタ
SF
人間の血管内に寄生する謎の有機構造体”ソレウス構造体”により、人類はその尊厳を脅かされていた。 蒲生里大学「ソレウス・キラー操縦研究会」のメンバーは、20マイクロメートルのマイクロマシーンを操りソレウス構造体を倒すことに青春を捧げるーー。 というSFです。

処理中です...