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ヒュドラ― - 蛇
謎の少年 3
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「――。ふざけるな。冗談はそれくらいにして、バス・ルームへ行くんだ。服を貸してやろう。陽のある内はともかく、夜はそれでは寒いだろう」
刹那、その表情に胸を突かれながらも、椎名は冷然と言葉を並べ、バス・ルームへのドアを示した。
「ぼく……病院から逃げ出して来たんじゃ……」
うつむきがちに、少年は言った。
「では、その検査衣は何だ?」
「……」
「服はどうした?」
「……ない」
「見れば判る。――靴は?」
「ない」
「つまり、君は何かの検査の時に、病院から逃げ出して来た訳だ。――担当のドクターの名前は?」
「……」
「どうせすぐに判る。――さあ、バス・ルームに行け」
黙り込む少年の背中を押し、椎名はその少年を左手のドアの中に押し込んだ。
ハムレットに『尼寺へ行け』と言われたオフェリアほどの哀れさではないが、少年は戸惑うようにしながら、黙ってそれに、従った。
しばらくして、シャワーの音が聞こえ始めた。それを耳に留め、椎名は服を取りに奥の部屋へと足を向けた。
クロゼットの中を探り、適当なセーターとボトムを選び出す。あの少年にはかなり大きいだろうが、ないよりはマシである。それを手にバス・ルームへ戻り、ポイと中に放り込む。
「――ったく……」
溜め息が、零れた。
重度の精神異常者から、軽度の患者までを収容し、治療に当たる大規模な精神病院では、受け持ちの患者以外、そう気にかけることもない。気にかけていられない患者数なのだ。
自分が精神病であるという自覚のない精神病者から、自分が病気であると思い悩む神経症患者まで、さまざまな人間がその空間に蠢いている。
社会に適応出来ずに疎外され、病院と名を変えた牢獄に隔離される彼ら――精神異常者は、いつの世も何処かに閉じ込められて暮らしている。そして、常識から逸脱した彼らは、中々正常への道を辿ることが出来ない。さらに堅く心を閉ざし、自分の中に閉じ籠もって行く者もいる。
向精神薬による治療の効果も含めて、以前のように一生を精神病者として過ごすことは少なくなっているとはいえ、分裂病や躁鬱病の二大精神病はもとより、精神病質、神経症、精神薄弱、心身症、自閉症、ダウン症……病に犯されている者は少なくない。特に、両親が子供を精神病だと認めたがらず、その症状が酷くなるまで病院に連れて行かず、医師に診せることが遅れるのはしばしばだ。
煙草を手に、シャワーの音を聞く時間、待っていた電話が鳴り出した。
「イエス、椎名」
そう応えた耳に届いたのは、再び眉を寄せる言葉だった。
院内を調べた結果、やはり脱走したり、行方不明になったりした患者は一人もおらず、消灯時にそれぞれの病棟の看護師が見回った時も、姿の見えない患者は一人もいなかった、というのだ。つまり、あの少年――椎名の車に忍び込んでいた少年は、患者でも精神異常者でもなく、椎名が保護する必要など全くなかった、ということに、なる。
「……そうか。ありがとう」
短い言葉で電話を置き、椎名はバス・ルームへと視線を向けた。
まだ水音は続いている。
病院から脱走して来た訳でもなく、検査衣姿で車に潜んでいた謎の少年――。彼は一体、何者である、というのだろうか。どこか別の病院から逃げ出して来たのか、外来の患者なのか……。身元が判らない限り――彼が話してくれない限り、後は警察へ届けるしかない。
シャワーの音が、止まった。
少しして、ダブダブの服を身につけた少年が姿を見せる。大きいセーターの襟は肩までズリ落ち、袖は指が全く見えないほどに、ダラリと被って垂れ下がっている。ボトムも腰で止まらないのか、何度もセーターに隠れた指で持ち上げ、長過ぎる裾を引きずっている。
「ミスター……」
まだ雫を落とす金髪のままで、少年はペタペタと――いや、ずるずるとボトムを擦りながら歩いて来た。
溜め息が、零れた。
「――ったく、何をしているんだ。袖も裾も折り曲げて着ればいいだろう? それに、ご丁寧に頭からシャワーを浴びたのか?」
ソファを立ち、椎名は呆れ顔で少年の元へと足を向けた。
「コックを押したら上から水が……」
少年は、身振りまでつけて、受け応える。
「それなら頭を拭いてから出て来ればいい。せっかく着替えても、それでは風邪を引くだけだ」
椎名はバス・ルームからタオルを取り出し、少年の頭に投げつけた。
「ぼく、濡れたままでも平気――」
「こっちはごめんだ」
「……」
その椎名の言葉に、少年はタオルを受け取り、袖口から出した白い手で、濡れた髪をゴシゴシと――黙々と一生懸命ふき始めた。
刹那、その表情に胸を突かれながらも、椎名は冷然と言葉を並べ、バス・ルームへのドアを示した。
「ぼく……病院から逃げ出して来たんじゃ……」
うつむきがちに、少年は言った。
「では、その検査衣は何だ?」
「……」
「服はどうした?」
「……ない」
「見れば判る。――靴は?」
「ない」
「つまり、君は何かの検査の時に、病院から逃げ出して来た訳だ。――担当のドクターの名前は?」
「……」
「どうせすぐに判る。――さあ、バス・ルームに行け」
黙り込む少年の背中を押し、椎名はその少年を左手のドアの中に押し込んだ。
ハムレットに『尼寺へ行け』と言われたオフェリアほどの哀れさではないが、少年は戸惑うようにしながら、黙ってそれに、従った。
しばらくして、シャワーの音が聞こえ始めた。それを耳に留め、椎名は服を取りに奥の部屋へと足を向けた。
クロゼットの中を探り、適当なセーターとボトムを選び出す。あの少年にはかなり大きいだろうが、ないよりはマシである。それを手にバス・ルームへ戻り、ポイと中に放り込む。
「――ったく……」
溜め息が、零れた。
重度の精神異常者から、軽度の患者までを収容し、治療に当たる大規模な精神病院では、受け持ちの患者以外、そう気にかけることもない。気にかけていられない患者数なのだ。
自分が精神病であるという自覚のない精神病者から、自分が病気であると思い悩む神経症患者まで、さまざまな人間がその空間に蠢いている。
社会に適応出来ずに疎外され、病院と名を変えた牢獄に隔離される彼ら――精神異常者は、いつの世も何処かに閉じ込められて暮らしている。そして、常識から逸脱した彼らは、中々正常への道を辿ることが出来ない。さらに堅く心を閉ざし、自分の中に閉じ籠もって行く者もいる。
向精神薬による治療の効果も含めて、以前のように一生を精神病者として過ごすことは少なくなっているとはいえ、分裂病や躁鬱病の二大精神病はもとより、精神病質、神経症、精神薄弱、心身症、自閉症、ダウン症……病に犯されている者は少なくない。特に、両親が子供を精神病だと認めたがらず、その症状が酷くなるまで病院に連れて行かず、医師に診せることが遅れるのはしばしばだ。
煙草を手に、シャワーの音を聞く時間、待っていた電話が鳴り出した。
「イエス、椎名」
そう応えた耳に届いたのは、再び眉を寄せる言葉だった。
院内を調べた結果、やはり脱走したり、行方不明になったりした患者は一人もおらず、消灯時にそれぞれの病棟の看護師が見回った時も、姿の見えない患者は一人もいなかった、というのだ。つまり、あの少年――椎名の車に忍び込んでいた少年は、患者でも精神異常者でもなく、椎名が保護する必要など全くなかった、ということに、なる。
「……そうか。ありがとう」
短い言葉で電話を置き、椎名はバス・ルームへと視線を向けた。
まだ水音は続いている。
病院から脱走して来た訳でもなく、検査衣姿で車に潜んでいた謎の少年――。彼は一体、何者である、というのだろうか。どこか別の病院から逃げ出して来たのか、外来の患者なのか……。身元が判らない限り――彼が話してくれない限り、後は警察へ届けるしかない。
シャワーの音が、止まった。
少しして、ダブダブの服を身につけた少年が姿を見せる。大きいセーターの襟は肩までズリ落ち、袖は指が全く見えないほどに、ダラリと被って垂れ下がっている。ボトムも腰で止まらないのか、何度もセーターに隠れた指で持ち上げ、長過ぎる裾を引きずっている。
「ミスター……」
まだ雫を落とす金髪のままで、少年はペタペタと――いや、ずるずるとボトムを擦りながら歩いて来た。
溜め息が、零れた。
「――ったく、何をしているんだ。袖も裾も折り曲げて着ればいいだろう? それに、ご丁寧に頭からシャワーを浴びたのか?」
ソファを立ち、椎名は呆れ顔で少年の元へと足を向けた。
「コックを押したら上から水が……」
少年は、身振りまでつけて、受け応える。
「それなら頭を拭いてから出て来ればいい。せっかく着替えても、それでは風邪を引くだけだ」
椎名はバス・ルームからタオルを取り出し、少年の頭に投げつけた。
「ぼく、濡れたままでも平気――」
「こっちはごめんだ」
「……」
その椎名の言葉に、少年はタオルを受け取り、袖口から出した白い手で、濡れた髪をゴシゴシと――黙々と一生懸命ふき始めた。
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