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十七夜 憑き物の巣

十七夜 憑き物の巣 10

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 一応一軒家ではあるが、何処にでもある建売住宅――。
 玉藻御前のお屋敷には遠く及ばないし、シスコのロシアンヒルにあるデューイの家と比べても雲泥の差。
「日本って、金持ちの国のイメージがあったんだけど……」
 そんなものはごく一部の資産家が持っているもので、実際にはほとんどの人間がこうして窮屈そうな住宅に住んでいるものなのである。
 その一般的な建売住宅の、猫の額ほどの庭に入り込み、家の中へと聞き耳を立てる。
 静かに集中して聞けば、舜の耳に、壁など何の障害にもならない。
「今帰ったばかりみたいだな」
「部屋を見て来るよ」
 舜の言葉に、デューイがすぐさま、灯りの点いた二階の一室へと灰の体で入り込む。以前に、窓からなら、という但し書き付きで、真綾に招待を受けているのだ。
 中から当然のように窓のカギを解除すると、
「では、行こうかえ」
 こうして、残る二人も窓から中へ入ったのである。
 もちろん、中にいた真綾は驚きもしたし、一人増えた人外――玉藻御前の妖しくも麗しい姿と、あまりにも似合い過ぎる掻取姿にしばし呆然としていたが、
「――あいつの母親はどうだったんだ?」
 その舜の言葉に我に返り、
「え、ええ……。意識が戻ったから、一旦家に帰ることにしたの」
 と、意外そうな顔で、舜を見つめた。
 まさか、人外の少年が――親や兄弟とは無縁のようなその少年の口から、真っ先に母親の容態を案ずる言葉が出て来るとは、思ってもいなかったのかも知れない。
 そして――。
 真綾の言葉はまだ続いた。
「でも、もうダメかもしれない……」




 救急車で着いた病院で、祐樹がまず最初に口にしたのは、この言葉だった。
「どうしよう……。『らら』を天界に見送らないまま、放って来ちゃったよ……」
 腹立ちと苛立ちが、最早限界に達する言葉だった。
 自分の母親が意識もなく、救急病院に運ばれて来ているというのに、ゲームの電源を切らずに来たことを心配しているなど――。
「もういい加減にしてよ!」
 救急搬送口の薄暗い廊下で、真綾は周囲も構わず大声で祐樹を叱りつけた。
「お母さんが倒れたのよ! たった一人のお母さんなのよ! それなのに、どうして今、ゲームの心配が出来るのよ!」
 怒りよりも悔しさのようなものが込み上げて来て、ボロボロと涙が溢れ出した。
 ――もう本当にダメかも知れない。
 そんなことも思っていた。
 今まで生活の全てを頼って来た母親が倒れて、祐樹が現実逃避したい気持ちも解らないではないが――いや、やはり解らない。目の前の母親の心配よりも、ゲームの心配をするどうしようもない人間のことなど。
 もう本当に祐樹は、こっちの世界ではなく、ゲームの世界の住人になってしまっているのかも知れない。
「ご、ごめん。でも『らら』が《熾天使セラフィム》になって叶う願いが増えたら、母さんだって――」
 どこまでゲームの世界に浸り続けるつもりなのだろうか。
「馬鹿――っ!」
 発作的に、真綾は右手を持ち上げて、祐樹の頬に激しい平手をぶつけていた。
 派手な音が響き渡り、ストレッチャーを運ぶ医師と看護師の足さえ、刹那、止まった。
「……真綾?」
「さっさと行くわよ」
「う、うん……」
 もう放っておけばいいのに、ここまで来ては、それも出来ない。何より、祐樹がこの調子では、医師の話一つまともに聞けるかどうか。
 病院というところは案外不便なもので、すぐに治療を始めてもらえるのかと思いきや、保険証や診察券など色々訊かれる。それだけでは飽き足らずに、アレルギーの有無や、既往歴……他にも祐樹が応えられないことを山ほど訊かれる。
 ただオロオロとするばかりで、何一つロクに応えられない祐樹の傍らで業を煮やし、
「そんなことより早く何とかしてください!」
 真綾は八つ当たり気味に叫んだのだが、
「でもね、薬剤や食べ物へのアレルギーがあると、使用薬剤によってはアナフィラキシーショックを起こして死に至ることもあるのよ」
 興奮する真綾に困ったように、年配の看護師が優しい口調で諭してくれる。
「すみません……。でも、解らないんです。私もそんなこと一度も訊いたことがないし」
「わかったわ」
 本当に、とてつもなく長い時間だった。
 祐樹もやっと現実世界の実感が戻って来たのか、真っ青になって黙っている。
 家族に出来ることは、知っている限りの情報を伝えることだけ。
 あとは医者に任せるしかない。
 それなのに……。
 それなのに、祐樹は母親のことを何一つ知らない。――いや、真綾だって、自分の母親のアレルギーや既往歴を訊かれたら、何一つ満足に応えられないかも知れない。偉そうに、祐樹のことを咎めることなど出来ないのだ。
「ごめん、真綾、俺……」
「落ち着きましょう。――おばさん、きっと保険証はキッチンの戸棚か寝室の小引き出しのついたタンスにしまってるんじゃないかと思うの。家に戻ったら探してね。なければバッグに入れて持ち歩いているのかも知れないわ」
「うん……」
「卵も乳製品もエビもカニも普通に食べてるんでしょ?」
「どれも好物だよ」
「あなたじゃなくて、おばさんよ」
「あ、ああ。うん、多分……」
「……」
 ――こんなデートになるなんて……。


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