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十六夜 五个愿望(いつつのねがい)の叶う夜

十六夜 五个愿望の叶う夜 9

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「――それなら、街にいる娘を探し出して、娘の願いを叶えてやってくれ、って……。そういう約束だったんだ」
 黒髪の悪魔の言うことは、全て本当のことだと判っていた。
 深緑が勝手に家を飛び出して来たのも本当だったし、母親の黒い手が恥ずかしかったのも本当で、悪魔のクセに、何故正直に全てを話しているのか、不思議だった。
 それとも、この悪魔たちは、母たる幸倪が思っていたように、山に棲む精霊、木霊だったのだろうか。
「ど……して……」
 苦しい訳でもないのに、言葉がなかなか声にならなかった。
 まるで、もう声を出す力も、酸素を取り入れる機能も失われてしまっているかのように――。
 そうなのだろうか。もう、この体は限界に来ているのだろうか。こんなに苦しみも痛みも何も感じてはいないのに。
 ――かーさん……。
 こんな、死んで逝くしかない運命の娘のために、自分が楽をする機会を逃すなど、本当に母親という存在は、苦労を買って出るように出来ている。
 この世で一番、損な存在だ。
 こんな身勝手な娘のことなどさっさと見捨てて、自分だけ楽な暮らしをすれば良かったのに。
 生きているかどうかも判らない娘のために……。
 確かに、田舎暮らしも、貧しい生活も、土と灰汁だらけの汚い手も……みんなみんな嫌いだったが、一番嫌いだったのは……。
 何よりも嫌いで許せなかったのは、そんな醜い心しか持てなかった自分自身。
 そんな自分にさえ、母親はまだ無償の愛情を注いでくれる。
 自分が怪我をして、明日の糧も得られない時でも、娘の願いを叶えてやってくれ、と――。
「か……さん……」
 言葉がさっきよりも出難くなっている。
 どうやらもう、これまでらしい。
 結局、願いは四つしか言えなかったが、別にそれでも構わなかった。こうして、最後に母親のことを思いながら、暖かい気持ちで逝けるのだから。
「馬鹿みたい……ほんと、かーさんって……」
 ――あたしって……。
「もっと……素直に……なりた……かった……」
 目を瞑ると、目尻を一筋の涙が伝い落ちた。
 最後に後悔しながら死ぬなんて、本当に自分らしい、と皮肉に思った。
 感謝の言葉も、謝罪の言葉も何一つ言えずに死ぬなんて――。
 だから、この悪魔たちは、深緑に念を押して訊いていたのだろうか。
「本当にそんな願いでいいのか」
 と……。
 母親は、ずっと娘のことばかり考えているのに、その娘は母親のことを考えないのか、と……。
 今更ながら、本当に、もっと素直になれば良かった、と思わずにはいられない。
 ――都会の暮らしは寂しいと。
 ――酷い人間に騙されて、辛い生活をおくっている、と。
 もう一度――。
 ――もう一度、かーさんの元で暮らしてもいいか、と。
 ――勝手に飛び出したのに、痛い目に遭ったから帰ってもいいか、と……。
 きっと、幸倪は拒まなかっただろう。
 日に焼けた黒い顔に皺を刻んで、いつもの夕餉を食べさせてくれたに違いない。
 深緑が「苦い」と言って嫌った山菜の入った粥と、芋ばかりの汁椀を……。
「か……さん……」
 そんなことを思ったのが、恐らく最後の記憶だった。――いや、もう記憶さえも必要なかった。
 全てが消えて、無に還った。


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