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十五夜 穆王八駿(ぼくおうはっしゅん)の因
十五夜 穆王八駿の因 30
しおりを挟むさらさら、と何かが流れるような気配がした。
意識を失った櫻花の口から、まだ何かが出て来ようとしている。
そして――。
「舜っ!」
気を失った櫻花が、見知らぬ声で舜を呼んだ。――いや、記憶のない舜から見ると、そう見えたのだが、実際に舜の名前を呼んだのは、たった今、櫻花の口から流れ出て来た、微細な灰の『青年』だった。
もちろん、皆さまはとっくの昔にご存じだろう。
中国とラオスの国境近くに聳える山の中、白アリに蝕まれる桜の木の根元から、白アリの巣に入り込み、その微細な体を利用して、隅々まで白アリを退治して出て来たデューイである。もちろん、退治した白アリを、桜の木の外へ放り出すことも忘れずに。
自分の気を、ここまで細かく正確に操り、樹の内部に走らせて白アリを退治することは無理でも、元々、体自体が微細な灰であるデューイなら、気だけを緻密に操る必要はない。少し気持ち悪いが、白アリの巣喰う樹の内部に入り込み、手当たり次第に倒して回ればいいのだから。
「こっち側に出て来れるなんて思わなかった! やっぱり、君もこの桜の樹を助けようとしていたんだ、舜!」
満面の笑顔が見えるような声が、さらに舜の周りにまとわりついた。
何とも嬉しそうな声である。
そして、舜の反応は、といえば……。
「誰だっけ、こいつ?」
やはり記憶はないのである。
この後、デューイがどれだけ落ち込み、ハンマーで頭を殴られたかのようにショックを受けたかは……まあ、長くなるので、ここでは書くのをやめておこう。
とにかく、舜が自分を覚えていないことはもちろん、それが冗談でも何でもなく、思い出してくれそうな気配もないことに、地面に這いつくばるほどに落ち込んでいたのだ。
そこへ、
「とにかく、礼を言うよ。オレじゃ、どうしようもなかった。――ありがとう」
そんな、舜のいつになく優しく素直な礼の言葉が聞こえて来たものだから、この時のデューイの歓びようも――いやいや、これも書き始めると、あっと言う間に一頁を埋め尽してしまうことになるから、割愛させていただくとして。
取り敢えず、灰の身でありながら、もう一度燃えて、燃えカスになってしまいかねないほどに、狂喜乱舞してのたうっていた。
「……こいつ、アブナイ奴なのか?」
そう舜が索冥に訊いたのも、無理のないことであっただろう。
その間、櫻花の方は、意識を失ったまま昏倒していたが、大花に見守られながら、静かな呼吸を繰り返していた。
さっきのような苦しみの翳は、そこにはない。
ただ静かな眠りだった。
「目ぇ醒めへんけど、大丈夫なんかなぁ……?」
心細げに、そんなことを問いかける大花に、
「上を見てみろ」
索冥が言った。
そこには――。
花びらの散った、その桜の木の枝々には、まだ柔らかい新緑の芽が生いていた。
『――もし、新芽が、蟲に食い荒らされていない枝先に芽吹いたら、その時は……』
あの時の、櫻花の願いが脳裏を過った。
もし、新芽が生いたら、風の渡る大地に植えて欲しい、と……。
それが、山を出て別の場所へ行ける舜に託された願いだった。
舜は右手の四指を真っ直ぐに伸ばすと、桜の木の一枝に向けて繊手を走らせ、美しく鋭く伸びた爪の先で、その一枝を切り落とした。
桜の木を傷つけないよう、切られたことも判らないほどの鮮やかな速さと切り口で。
あとはこの一枝を、新しい地に植えてやればいい。
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