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十五夜 穆王八駿(ぼくおうはっしゅん)の因

十五夜 穆王八駿の因 12

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 まさか、舜が記憶を失っているなど――。
 ただでさえ、人の言うことを素直に聞かない舜が、索冥やその他諸々に関しての記憶を失っているのだとしたら、その説得も容易ではない。
 第一、覇王花は、なぜ舜に種子を寄生させるだけでなく、その記憶まで消し去ってしまったのだろうか。――いや、もちろん、故意に消した、と決まった訳ではないが。
 舜が記憶を持っていては、何か都合が悪いことでもあったのだろうか。
「――で、俺はおまえの父親の黄帝に頼まれて、伝言を持ってここまで来たんだ」
 これまでの経緯を索冥が話し終えると、舜はさらに厭な顔をして、
「なんか、この辺りがモヤモヤ、ムカムカする」
 と、胸と胃の辺りに手を這わせた。
 記憶を失っていても、嫌いなものは覚えているらしい。
 ――何が嫌いなのか?
 そりゃ、言わずと知れた自らの父、黄帝である。
「取り敢えず、病気を治す薬が欲しいのなら、ここを出なけりゃならない。そのためには、覇王花の頼みをさっさと聞いてやるのが一番だ」
 噛んで含めるような索冥の言葉にも、
「んー……、なんか足りないような……」
 もしかして、あの間の悪い青年のことを言っているのだろうか。
「足りないのは、おまえの記憶だ。――さっさと大花を探すぞ。薬はその後だ」
 大花とはもちろん、黄帝の知人の娘――つまり、覇王花の娘であり、この娘の縁談をまとめることこそ、今回の旅の目的であった――はずなのだ。
「でも――」
 病気の少女を一人にしておくのは――と、目線が告げる。
「……。悪いことは言わない。今は関わるな」
 ほんの微かな声で、索冥は言った。
「おまえ、何を知ってるんだ?」
「色んな事だ」
 何しろ、自分でも忘れてしまうくらいの時を生きている麒麟である。
 目醒めたのが、まだ最近であろうと、この記憶喪失の舜よりは世の理を知っている。
 二人がコソコソと話をしていると、
「あの……すみません、泣いてしまって――。私はもう大丈夫ですから、行ってください」
 櫻花が言った。
 今は少し顔色も良く、頬には朱さえ差している。
 舜は少し迷っていたが、それでも、ここで出来ることは何もない、と悟ったのか、索冥の方を振り返ると、仕方なさそうに歩き出した。そして、
「――で、どこに行くんだ?」
「言っただろ。大花を探しに、だ」
 それが、年頃になった娘の名で、覇王花に頼まれた黄帝が、縁結びの手助けをする、と約束をしたことまで簡単に話し、
「さて、どこから探すかな」
 索冥は、それを聞いてもまだ思い出せずにいる舜に、構わず言った。
 ――娘。
 年頃の娘たちの集っていた屋敷なら、一度そこに連れて行かれた舜は知っている。
「あの中にいたのかなァ……」
「あの中?」
 とにかく、今は他に当てもないので、索冥は舜の案内のままに、その豪華な屋敷へと足を向けた。
 舜自身はその場所を覚えていない、と言っていたが、彼の嗅覚は通常の人間とはかけ離れている。桃源郷に漂うような甘い香りを、舜が忘れているはずもなかった。


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