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十二夜 貨殖聚斂(かしょくしゅうれん)の李(り)

十二夜 貨殖聚斂の李 14

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 急に吹雪くのは、山のせいではない。
 天候が変わりやすいのも、誰のせいでもない。
 白く、白く、広がる雪の中で、女の、その緋色の長衣だけが果てしない雪景色に咲く葩のようで、印象的だった。
透ける美しさの吊帯長裙と、黒地に吉祥文様の帯が艶やかで、その身を案ずることよりも、しばし魅入るほどの幻想的な光景だった。
 なにしろ、ここは雪山――。
 そのような薄物で人が倒れているなど、あり得ないことだったのだから。
「あそこに降りろ」
 こちらも真っ白の――鹿のようなしなやかな体と、真珠貝のような光沢をもつ鱗、そして、純白の鬣に、枝分かれした長い角――そんな不思議な姿形をした霊獣に、虞氏は言った。
 彼はその霊獣の背に跨り、空を翔けていたのだ。
「……」
 霊獣は不服そうに押し黙ったが、逆らうことはしなかった。
「そんな顔をするな。倒れているものを捨て置くことは出来ぬ」
「……。魔物の罠でも?」
 人の言葉を操り、霊獣は言った。
「クックッ。――罠なら、その者の身を案ずる必要もなくなるのだから、結構なことではないか」
「……」
 その霊獣は、いつもそんな顔をして、虞氏のことを睨むのだ。溜息ばかりをついて。
 美しい女だった。
 神秘的過ぎて、儚過ぎて、見つめているだけで、胸が痛んだ。――そう。刹那に恋に堕ちたのだ。
 女は弱って倒れていた。
 だが、この寒さと雪山のせいではない。法力に穿たれたような、黒い傷が残っている。恐らく、死力を尽くしての闘いが繰り広げられたのに違いない。
「背を貸してやってくれ、索冥」
 氷のように冷たい女を腕に抱いて、虞氏は言った。
「それは断る」
 考える間もない応えだった。
 虞氏は苦笑のように、
「――やれやれ、自分で担ぐか」
 そうして、自らの屋敷に連れ戻ったのだった。


 女は名を、雪蘭シュエラン、と言った。
 意識を取り戻した女の頬は、それでもまだ凍っているかのように冷たくて、赫い唇だけが目に焼きついた。
 二人は長く見つめ合い――どちらも、それが愛であると解っていた。
 春が来たように心を温め、夏が来たように愛し合った。
 偽りなど、ただの一片も混じりはしなかった。――いや……。
 彼女には、虞氏に黙っていることがあった。
 もちろん、嘘をついていた訳ではない。ただ、黙っていただけである。
 そして、虞氏も、彼女に訊かなかったことがある。
 もちろん、それは騙されるためではない。ただ、必要なかったからである。
 索冥は何か言いたげだったが、虞氏が変わらず民衆を愛していたことで、辛うじて何も言わずに黙っていた。
 だが、そんな日が長く続くはずがなかった。
 虞氏の――舜帝の寵愛を受ける美しい女のことはすぐに噂になり、絵姿が飛び交い、一人の方士が現れた。
 彼ら方士は――いや、多くの人間は、物の怪や魔物の類を、人間とはかけ離れた悪しき生き物だと思っている。人を愛する心さえ持ってはいないのだと――。
 だが、彼ら魔物の何処が、人間と違うというのだろうか。
 彼らが悪だというのなら、人間は善だとでも言うのだろうか。
 人であれ、魔物であれ、善と悪を混在させているものが、生き物ではないのだろうか。
 あの雪山でのことを思い出し、虞氏は、
「それはそなたの思い違いだ。あれは雪精霊ゆきおんななどではなく、ただの娘――。案ずるには及ばぬ」
 愚かな嘘をついたのだ。
 ただ一言、真実の言葉を告げれば、全ては変わっていたかもしれないというのに。
「彼女が魔物であることは知っている。――だが、それでも彼女を愛しているのだ」
 と……。
 自分が感じたことを感じたままに、方士や民に偽りなく話し、理解を得る努力をすれば良かったのだ。
 民衆は、物の怪という存在を恐れていただけである。その恐れや不安を取り除いてやりさえすれば……。
 本当のことを言えば良かったのだ……。
 たとえ彼女が何であっても、人と同じ心を持った生き物なのだ、と……。



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