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十一夜 猩猩(しょうじょう)の娘
十一夜 猩猩の娘 27
しおりを挟むあの姿は、身間違いようのない、姫王の姿――。いや、幼い日に見た、銀色に輝く月の精霊……。
何故、彼が張献忠の盃を……。
長い時間考えるような問いではなかった。彼は香月の同族であると言ったのだから、彼も、あの盃から立ち昇る同じ気配に気がついたのに違いない。
あの盃から溢れ出す、恐ろしいほどの血の匂い――。もう人間を襲う必要もなく、毎日、干からびた咽を癒せるものを……。
だが、それからどれだけ探しても、その青年を見つけ出すことは出来なかった。
そして、平西王として雲南で正妃を娶った呉三桂の側を離れ、香月は王府の外の別院で暮らし始めた。
呉三桂は香月を別院にやりたくはないようだったが、嫉妬深い正妃は、自分より美しい愛妾を、三桂の側に置くことを許さなかった。
また香月も、嫉妬深い正妃の目を盗んでやって来る三桂の愛の言葉を聞きながら、己の宿命を呪っていた。
「円円、我が最愛の妻……。私の心を埋め尽くすのは、未だにそなた一人だけ……」
耳元で囁かれる愛の言葉も、香月には寂しいだけのものだった。
自分が『円円』という名で呼ばれる女であることも、今となってはどうでもいいことだった。
何故だかとめどもなく涙が溢れ、どうしようもなく胸が詰まった。
「どうしたというのだ、帵芬?」
人々が呼ぶ字で香月を呼び、三桂が涙の訳を問いかける。
「今からでも、そなたが望むなら、我が貴妃に――。いや、正妃にも――」
「いいえ、そんなことは望んではおりませぬ。私が望むことは、ただ一つ……」
「一つ? 何なりと申してみるがよい。そなたの望みとあらば、どんなことでも適えよう」
「……」
三桂に叶えられることであれば、この場で涙は零れはしない。
それは、誰にも適えられぬこと――。香月が背負う宿命なのだから。
だが――。
だが、あの銀色の月の神なら、もしかすると、香月の望みを叶えてくれるのではないだろうか。
玲玲が『全き御方』と呼んだ、あの青年なら――。香月の宿命を変えることも出来るのかも知れない
あの青年なら……。
「私は……」
――愛する人と、共に、死にたい……。
「……私の願いは、貴方様のご健勝のみにございます」
香月は言った。
ここを去ろう――そう決めた夜でもあった。
そして、その青年が現れたのだ。
「そなたの宿命は、私には変えられぬ。――だが、いつかはそなたと共に、永きを生きられる者も現れるだろう……。それまで、安らかな眠りにつくがいい」
その静かな言葉と共に、細かく、さらさらとした黄土が風に運ばれ、香月の体を覆い始めた。
「これは……?」
「そなたの眠りを守るものだ」
「私の眠りを……」
守る……。
なら、この守りが解けた時、自分の側には、永きを共に生きる者が現れる、というのだろうか。
何年経っても姿も変わらぬ自分と共に、何十、何百、何千の時を過ごしてくれる、同族が。
いつも先に老い、死んでしまう者ではなく、いつまでも共にいてくれる人が……。
心が不思議と穏やかになった。
今までずっと孤独だった自分に、同じ運命の者が現れる。
それだけで、この眠りが安らぎに思えた。
香月は静かに目を瞑った……。
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