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十一夜 猩猩(しょうじょう)の娘
十一夜 猩猩の娘 19
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天府の王は、中庭を囲む回廊の正面に位置する正殿に座し、その姿は、御簾に隠されて見えなかった。
聞くところによると、ここ数年、その御簾が上げられたことはない、という。遠路はるばる拝謁に来た貴族たちにも、姿を見せたことはない、と。
無論、側近く仕えるものはその限りではなかっただろうが、その者たちから、王の御姿が窺い知れることは、終ぞなかった。
身分の低い者は、目を合わせることはおろか、面を上げることも許されないとはいえ、御簾越しでは声以外のものは何も見えない。
宗厚と香月もまた、御簾越しに深く頭を下げ、声がかかるのを待ち、挨拶を済ませた。
数年前、病に伏してから、口数少なく、人を遠ざけるようになった、というが、人前に姿を見せなくなったのは、その病のせいで、顔に醜い腫れものが出来たから――なのではないか、という者もいた。もちろん、それを確かめたものはいなかったが。
姫水近くで生まれたことで、この蜀の天府の王は、姫王とも呼ばれている。
型通りの挨拶が済み、宗厚が香月を紹介すると、やっと二人とも面を上げることを許された。
「……」
しばらく続いた沈黙に、姫王が香月の美しさを確かめていることが、窺い知れる。
だが、こちらから御簾の向こう側は覗けない。
それでも、畏怖のようなものを感じていた。姿すら見えないというのに――。いや、それは姿が見えないからこそ、だっただろうか。
香月には、何故だかその御簾越しの人物が、得体の知れない恐ろしい者のように思えて、手のひらに汗をにじませた。――汗などかいたことがないというのに。
やはり、不安なのかもしれない。
玲玲に会いたい一心で来たものの、このまま召し上げられれば、もう二度と宗厚の元には帰ることが出来ないのだから……。
「なるほど……。噂に違わぬ美しさよ。そなたは確かに良い目を持っている。――のう、宗厚?」
御簾の向こうから、威厳高い――それでも猛々しさなど微塵もない、静かな声がゆうるりと届いた。
「畏れ入ります」
「そう云えば……いつぞやのあれも素晴らしかった。あの、緋色の鬣の猩猩……」
「――」
聞こえてきた言葉に、香月は、ハッと胸を突かれた。
まるで、自分の心を見透かされたような気がしたのだ。もちろん、そんなはずはないだろうが。
「さて、今度は何を褒美に取らそう?」
気に入った、と――。香月を召し上げる代わりに、宗厚に欲しいものをくれてやる、と言っているのだ。
「滅相もございませぬ。褒美などは――」
「従二位を取らそう」
貴族とはいえ、正一位から従五位下まで十数もの階級がある中、従二位に取り立ててやる、という姫王の言葉は、宗厚には驚きに値する出世だった。香月が寵妃になれば思いのままになると思っていた階級が、すでに今、従二位……。
「有難き幸せにございます」
夢見心地の宗厚の面を垣間見て、香月は寂しさが胸に込み上げて来るのを感じていた。
解ってはいたことだったが、それでもやはり、心のどこかで地位よりも香月を大切に思ってくれるのではないか、と考えていたのだ。
だが……。
今の宗厚は、香月のことなど見ていない。
男とは――女と見つめ合うことよりも、己の高みを見つめることにこそ、何よりの歓びを感じる生き物なのだろうか。
「今宵はそなたも宴で楽しむがよい」
その宗厚への言葉を最後に、御簾の向こうで立ち去る気配と、側に来た従者が、
「お部屋にご案内いたします」
と、頭を下げた。
それぞれ別々の部屋へと案内され、もうそれっきり、宗厚と顔を合わせることは一度もなかった。
それでも、恋を知らないよりは寂しくなかった、と、いつかは思える時が来るのだろうか……。
聞くところによると、ここ数年、その御簾が上げられたことはない、という。遠路はるばる拝謁に来た貴族たちにも、姿を見せたことはない、と。
無論、側近く仕えるものはその限りではなかっただろうが、その者たちから、王の御姿が窺い知れることは、終ぞなかった。
身分の低い者は、目を合わせることはおろか、面を上げることも許されないとはいえ、御簾越しでは声以外のものは何も見えない。
宗厚と香月もまた、御簾越しに深く頭を下げ、声がかかるのを待ち、挨拶を済ませた。
数年前、病に伏してから、口数少なく、人を遠ざけるようになった、というが、人前に姿を見せなくなったのは、その病のせいで、顔に醜い腫れものが出来たから――なのではないか、という者もいた。もちろん、それを確かめたものはいなかったが。
姫水近くで生まれたことで、この蜀の天府の王は、姫王とも呼ばれている。
型通りの挨拶が済み、宗厚が香月を紹介すると、やっと二人とも面を上げることを許された。
「……」
しばらく続いた沈黙に、姫王が香月の美しさを確かめていることが、窺い知れる。
だが、こちらから御簾の向こう側は覗けない。
それでも、畏怖のようなものを感じていた。姿すら見えないというのに――。いや、それは姿が見えないからこそ、だっただろうか。
香月には、何故だかその御簾越しの人物が、得体の知れない恐ろしい者のように思えて、手のひらに汗をにじませた。――汗などかいたことがないというのに。
やはり、不安なのかもしれない。
玲玲に会いたい一心で来たものの、このまま召し上げられれば、もう二度と宗厚の元には帰ることが出来ないのだから……。
「なるほど……。噂に違わぬ美しさよ。そなたは確かに良い目を持っている。――のう、宗厚?」
御簾の向こうから、威厳高い――それでも猛々しさなど微塵もない、静かな声がゆうるりと届いた。
「畏れ入ります」
「そう云えば……いつぞやのあれも素晴らしかった。あの、緋色の鬣の猩猩……」
「――」
聞こえてきた言葉に、香月は、ハッと胸を突かれた。
まるで、自分の心を見透かされたような気がしたのだ。もちろん、そんなはずはないだろうが。
「さて、今度は何を褒美に取らそう?」
気に入った、と――。香月を召し上げる代わりに、宗厚に欲しいものをくれてやる、と言っているのだ。
「滅相もございませぬ。褒美などは――」
「従二位を取らそう」
貴族とはいえ、正一位から従五位下まで十数もの階級がある中、従二位に取り立ててやる、という姫王の言葉は、宗厚には驚きに値する出世だった。香月が寵妃になれば思いのままになると思っていた階級が、すでに今、従二位……。
「有難き幸せにございます」
夢見心地の宗厚の面を垣間見て、香月は寂しさが胸に込み上げて来るのを感じていた。
解ってはいたことだったが、それでもやはり、心のどこかで地位よりも香月を大切に思ってくれるのではないか、と考えていたのだ。
だが……。
今の宗厚は、香月のことなど見ていない。
男とは――女と見つめ合うことよりも、己の高みを見つめることにこそ、何よりの歓びを感じる生き物なのだろうか。
「今宵はそなたも宴で楽しむがよい」
その宗厚への言葉を最後に、御簾の向こうで立ち去る気配と、側に来た従者が、
「お部屋にご案内いたします」
と、頭を下げた。
それぞれ別々の部屋へと案内され、もうそれっきり、宗厚と顔を合わせることは一度もなかった。
それでも、恋を知らないよりは寂しくなかった、と、いつかは思える時が来るのだろうか……。
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