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十一夜 猩猩(しょうじょう)の娘

十一夜 猩猩の娘 10

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 香月の気配が、この渓谷の村から離れて行くのを知り、猩猩は、何人もの村人の血で濡れ染まった爪を、静かに下ろした。
 逃げ行く足音を拾うように、咆哮をやめる。
 刹那――。
「今だ!」
 一人の村人の合図と共に、冷たい水が浴びせられた。――いや、水ではない。
 それは……。
 甘い、甘い――夢のように甘い芳香を放つ、酒である。
 酔うほどに心地良い痺れが駆け抜け、体の力が抜け落ちる。
 ――舐めてはいけない。
 そんな思いもむなしく、長い毛に滴る酒に、舌が伸びる。
 舐め取るごとに、甘い美酒が体を酔わせる。
「見ろ! 酒を舐め始めた! やはり伝説の通り、猩猩は酒に見境がない。――もっと酒を持って来い!」
 勝機を見出すような声が上がった。
 渓谷の清流で作られた酒樽が、猩猩の側へと転がされる。
「あまり近づくな。あいつは頭の悪い畜生じゃない。魔物だ。あの爪に引っかけられたら、臓物が全部引きずり出される」
「ああ。あいつが酔っぱらったら、一気に……」
 転がって来る樽の匂いを嗅ぎ、腰を下ろす猩猩を見ての言葉であった……。




 そんな村での出来事を、應欽は、息絶えた新夏を膝に抱きながら、聞いていた。
 傍らでは、宇春が、枯れない嗚咽を吐き出している。
 まだ、たった六つの幼子――。その幼子が、この首筋に付いた、たった二つの牙の痕のために、死んでしまうなど……。
 生きていた頃と、何一つ変わらない静かな寝顔は、ふと目を開けて笑いかけるのでは、と思うほどに、あどけなく愛らしいものだった。
「新夏……」
 應欽の手に中には、今、あの日にもらった小さな杭が収まっていた。
『我が娘が、そなたらの手に余るようになった時、心の臓に突き立てるがいい』
 あの時、銀色の月の庭で、あの伝説人は言った。そして、こうも言っていた。
『我が娘――そなたらが香月と名付けた娘を、唯一、滅ぼすことが出来る沈香の杭だ』
 と――。
 ――香月を滅ぼすことが出来る、杭……。
 息子の血を啜り、魔物へと変貌した、美しい娘を――。
「……新夏を頼む」
 應欽はそう言い残し、宇春に背中を向けて、家を出た。
 沈香の杭は、懐の中に収まっていた……。


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