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十一夜 猩猩(しょうじょう)の娘
十一夜 猩猩の娘 9
しおりを挟む頬に触れる新夏の首筋から、甘い匂いが漂って来る。
ドクン、ドクン、と規則正しい血の流れが、こんなにも近くで、鼓膜を、揺らす。
――どうして。
こんな時に――こんな時でも……。
一緒に育った優しい義哥哥にかばわれ、抱きしめられているというのに、香月の歯は疼きを増し、飢えと渇きを増幅させる。
錆びた鉄のような血の匂いが、乱杭歯を堪えようがないほど、刺激する。
漆黒の瞳が赤光を放ち、透き通るような白い頬が、蒼白さをさらに際立てる。
もう、理性を保っていることは出来なかった。
何日も乳を含んでおらず、口腔内には唾液の一滴も残ってはいない。
自分を抱きしめる新夏の首に――。
目の前にある、優しい義哥哥の首筋に、剥き出しになった乱杭歯を突き立てる。
「キーッ!」
と、玲玲の甲高い叫びが上がった。
だが、今度は止まらなかった。
弾けるように肌を突き破った乱杭歯に、迸る血液が絡み付く。
喉を動かす時間ももどかしく、このまま新夏を半分に引き裂いて、その血を浴びたいくらいだった。
「香月……?」
か細い新夏の声が聞こえ、直後に、應欽や村人たちの声が上がった。
「新夏! 新夏が――」
「早く新夏を引き離すんだ!」
そして、玲玲の声――。いや、それは本当に彼女の声であったのだろうか。
愛らしい子ザルの声でもなく、少女の時の声でもない。地の底から湧きあがるような、重々しい咆哮――。
「ば、バケモノダだ!」
「子ザルに化けた妖怪が、黄帝様の御子を誑かした!」
村人たちよりも大きな体と、一筋の白い長毛を飾る赤毛の狒狒――いや、猩猩。その姿を前にして、人々は恐れ慄いた。
真っ赤な顔と、知を持つ瞳、一振りで肉を抉り、骨を砕くであろう、長い双腕。
一心不乱に血を啜る香月を隠すように立ち塞がり、重々しい咆哮で威嚇をするその猩猩は、人語を操り、こう言った。
「そなたらが崇める黄帝の御子を穢すことなど、いとも容易い」
この香月の変わり果てた姿は、全て自分のしたことであるのだと――猩猩は自ら、そう言った。
村人たちの怒りは全て、この猩猩に向けられた。
「貴様、よくも新夏を――!」
山の樹木を切り出すための斧を振り上げ、應欽が猩猩に踊りかかる。
子を殺められた親の、当然の行動であっただろう。
だが、力も動きも、猩猩に比ぶるべくもない。あっと言う間に叩き伏せられ、顔の脇に、斧が、カツン、と突き立った。
「ひっ」
短い悲鳴が小さく上がり、誰もが遠巻きに猩猩を囲む。
ある者は一歩下がり、ある者は腰を抜かし――。
その隙に、血で喉を潤した香月へと、
「……行きなさい。――そして、生きてください」
口も動かさず、ほんのかすかな声で、猩猩が言った。
それは、蜻蛉の羽音よりも静かで、血を得た香月でもなければ、聞き取れないものだった。
「玲玲――」
届いた声に正気を取り戻し、香月は顔を持ち上げた。
唇をめくり上げる乱杭歯からは血が滴り、すでに蒼白く色を失くした新夏の頬に、ぽたり、と落ちる。
「い……いや……新夏……。新夏――!」
その香月の叫びは、猩猩の咆哮に掻き消された。
急激に血液を失くしたショックで息絶えた新夏を抱きしめながら泣き叫ぶ香月を背中に、猩猩――玲玲は狂気の形相で村人たちに襲いかかった。
――早く、早く、お逃げください……。
そんな声が聞こえて来る背中だった。
逃げ惑う村人、うずくまる人々、凍りつく年寄り――それらを、豪奢な腕と鋭い爪で、引き裂いて行く。そして、ついには壁を壊し、家の外へと飛び出した。
外は、まだ明るい。
その明るさに似つかわしくない、狂気の悲鳴が高く上がった。
「玲……」
最初から、彼女にすがっていれば良かったのだ。
こんなことになるくらいなら、彼女の血を啜りながら、生きながらえて行けば――。
「行かなきゃ……」
これ以上、玲玲が村人たちを殺さなくてもいいように――。
自分がここを離れてしまえば、玲玲が猩猩の姿で人を殺す理由もなくなるのだから。
香月は、まだ暖かい新夏の体を静かに寝かせ、震える膝で立ちあがった。
本当の兄弟のように仲良く育った新夏を、見境なく牙にかけて殺してしまうことになるなど――自分の中に、そんな悍ましい血が流れているなど――。
陽を避けて、渓谷とは反対側の山へと逃げ込み、香月は心臓を捥ぎ取られるような痛みに打ち震えた。
自分は化け物なのだと――。
村人たちが言っていたような黄帝の御子などではなく、飢えと渇きに生き血を啜る、救いようのない魔物なのだと――。
まともな生き物なら、自分の飢えを満たすために、大切な家族を手にかけたりするはずが、ない……。
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