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十一夜 猩猩(しょうじょう)の娘

十一夜 猩猩の娘 4

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 五歳になった香月は、一歳年上の義哥哥あに、新夏にもよく懐き、いつも後を追いかけるようにして、仲良く一緒に遊んでいた。
 相変わらず、乳以外は口にしなかったが、何を差し出しても『おいしくない』『味がない』と言って食べようとしないのだから、應欽たちが困り果てたのも無理はない。
 あの日、黄帝が姿を見せた月の夜に、香月が何なら食べることが出来るのか、訊いておけばよかったのだ。もとより、尊い神々が何を食べて暮らしているのかなど、誰も知りはしなかったのだから。
 それでも――乳以外のものは口にせずとも、香月は飢えることなく生きていて、普通の子供と同じように元気だった。
 ただ、陽の光に当たるのは苦手で、外で遊ぶのは今日のように曇った日か、陽がかなり傾いてから――特に朝は外に出ることを極端に嫌った。
 皮膚が透き通るように白いためか、肌が弱く、強い陽射しに焼かれて爛れ、痛い思いをしたことも、陽光を厭う原因になっているのだろう。
 近所におつかいを頼んだ時も、
「招かれていない家には入れない」
 と言って、出歩くことを拒んだのだから。
 それでもそれは、少し肌が弱いだけのことで、一年前の黄帝から聞かされた言葉のように、
『手に余るようになった時』
 などというものではなかった。
「まって、新夏! まってぇ――!」
 今日も義哥哥あにを追い駆けて、曇り空の下を駆けまわる。
「魚を獲りに行くんだから、今日はダメだよ。川に入れないだろ、おまえ」
 香月は川も苦手だった。
 皆、川で体を洗ったり、洗濯をしたり、魚を獲ったりしていたが、香月は頑として川辺に近寄ろうとはしなかったのだ。
 別に川でおぼれたことがある訳ではなく、そこが危険である、と本能で知っているかのように。
「川……」
 新夏の言葉に、香月は落胆するように眉を下げた。
「うまい魚を獲って来てやるよ。おまえにも食えそうな奴」
 この義哥哥あには、いつも香月を気遣ってくれる。
 もちろん、大人たちも皆、香月のことを『黄帝様の御子』として大切に扱ってくれたが、それとはどこか少し違っていた。――どこが、と言われても判らないのだが……。
「……うん」
 香月は足を止めて、そんな義哥哥あにの後ろ姿を見送った。
 別に魚など食べたくはなかったし、そんなことよりも新夏と遊ぶことの方が、余程楽しみだったのだが……。
 少し頬を膨らませながら、渓谷へ降りる道とは反対側の、山の方へと足を向ける。
 そこは木々の陰でひんやりとして、香月にはお気に入りの場所だった。
 少し木立の間を気ままに歩き、土の匂いと、湿った空気に、肌が歓喜の声を上げるのを心地良く聴く。
 どれくらいそうしていただろうか。
 薄暗い木々の中にあって、玲瓏な輝きを見せる、銀色の月神がそこに在った。
「……だれ?」
 そう訊いたが、銀色の光にも似たその青年は何も応えず、
「飢えと渇きに耐えられなくなった時は、彼女にすがるがいい」
「かのじょ……?」
「乳はいつまでも溢れるものではない」
 それだけを言って、静かに消えた。
 彼女とは一体、誰の事なのか――そもそも、この薄暗い木立の中に、好んで入って来る娘がいるものかどうか。
 不思議な出来事にしばらく茫として立ち尽くしていると、すぐ傍の樹がガサガサと揺れて、音を立てた。
 見れば、赤毛に白い毛が一筋入った、小さな猿が香月のことを見下ろしていた。ちょうど、香月の肩に乗るくらいの子ザルである。きれいな緋色の顔をしていて、賢そうな黒瞳だった。
 その子ザルが身をブルブルと震わせると、雫が幾つも飛び散った。
「キャッ。――つめたい!」
 まるで川から上がって来たような雫の飛ばしように、子ザルを睨みつけて、文句を言う。
 すると、子ザルはするすると枝を駆け下りて来て、香月の前に畏まった。
まったき御方より、あなた様にお仕えするよう、申しつけられております」
 姿が薄くなり、そうかと思うと不意にその子ザルは少女の姿になり、流暢な人語を話して見せた。
 もちろん、それには驚いたが、この頃、人はまだ神や魔物を信じ、迷信や摩訶不思議なことを信じて暮らしていた。――だから、香月も同じように、自分の目の前に、そういった妖怪あやかしの類が現れても、不思議なこととは思わなかったのだ。
「全き……。さっきの人?」
 そう訊くと、
「あの御方は人ならぬ御方」
「……?」
 何の事だか判らない。
 だが、さっきの銀色の青年が、『彼女にすがるがいい』と言ったことは、覚えていた。
「あなたが……かのじょ?」
「わたしのことは、好きにお呼びください」
「え? でも――」
「名前など持ってはおりません。あなたのお役にたつために、あの方に育てていただいただけなのですから」
「……」
 よく意味は解らなかったが、名前がないということと、香月が名付けてもいいのだ、ということは、何となく解った。
「さっきの姿と、今の姿は、どっちがほんとうなの?」
「どちらも、ただの『真似』――。ですが――」
 言葉の途中で、少女は再び子ザルの姿に戻り、
「こちらの方が、誰に何を問われることもなく、煩わしくはないでしょう」
 と、子ザルの姿で人語を話した。
 確かにサルの姿なら、身元や、これまでの生活、家族のことを訊かれる心配もない。
 だが、それなら一体、香月は彼女の何にすがればいい、というのだろうか。それだけはいくら考えても解らなかった。
 あの月のような青年と、子ザル――。
 今日は、不思議な出会いを、二度も体験した一日だった……。


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