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十夜 和氏(かし)の璧(へき)

十夜 和氏の璧 31

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「――そんな霊力を込めた手で薙ぎ払ったら、こいつがどうなるか解ってるだろ?」
 今、白龍の姫を掴んでいる舜の手さえ、瞬く間に塩のかたまりになっていくように、動きが鈍くなっている。気を込め、可能な限りの防御を取っている手が、である。
 霊獣たる龍の力――それは、想像を絶する凄まじいものであるのだ。
 帝王の象徴である霊獣、龍は、全てを統べる力さえ持っている。
「手を――放しなさい……」
 声が震え、顔が少し赤らんだ。
 まるで、他人に触れられたことなどない生娘のように。
「舜くん、彼女の言葉が聞こえませんでしたか?」
 黄帝が言った。
「でも、こいつが――」
「真実を聞いてもらうことは、確かに困難なことですが、真実を聞いてあげる耳を持つことも、また難しいものです」
 聞いてもらうことも、聞いてあげることも――。
「彼女は霊獣――。誰の手にもその身を任せたことはありません。デューイさんが急に近づいて来るのに驚いて、咄嗟に力を込めてしまっただけのことです」
「え……?」
 少女のように恥じらう白龍の姫の姿に、舜はほとんど動かなくなってしまった指を、ゆっくりと放した。
 幸い、手は塩のかたまりにはなっていなかったが、今もその恐るべき霊力に痺れている。
 ――咄嗟に、振り払おうとしただけ……。
 誰にも触れさせたことなどない身に、触れられることを恐れて――。
 帝王と呼ばれる霊獣でさえ、初めてのことに怯える心は持っているのだ。龍が何者にも恐れをなさない帝王であるなど、いつの間に決めつけていたのだろうか。その霊力で跪かせることは出来ても、力でどうにもならないことには、普通の娘と変わりないというのに。
 舜が、力で倒せない蛇の怨霊に、全く太刀打ち出来なかったように。
 そして、帝王である龍が認めるのは、やはり帝王の力を持つ存在のみ。
「すでに誰かが価値を認めたものを褒め称えることは、とても簡単なことです。誰もが即座に称賛の言葉を浴びせるでしょう。――ですが、まだ誰もその価値を認めていないものを褒め称えるには、勇気が要ります。――私の言っていることは解りますね、舜くん」
「……はい」
「あの紫禁城でもここでも、彼女の秘めるものを見抜くことが出来なかった君は、誰もがただの石だと言った原石を、宝玉であると見抜いた下和の足元にも及ばない未熟者な子供です」
「……」
 今回こそは厭味を言われることはない、と思っていたのに、結局、いつもと同じ皮肉と厭味の嵐である。
 ――クソっ。こいつ、わざと蛇のフェイクをあの場に付け足しておいたな。
 ますます、この少年の性格は歪んで行くのである。
「それでも、まあ。神聖なる龍に早くも手をつけてしまうなど――。少しは見直しましたよ」
 にこにこと嬉しそうに笑って、黄帝が言った。
 少し迷い、即座に我にかえった舜は、
「はああ――っ!」
 ――たかが手を握って止めただけで、手を付けたことになってしまうのか。
「彼女を傷モノにしたからには、君には責任を取る義務があります。――そうでしょう、舜くん?」
 そういう黄帝の傍らでは、白龍の姫が、『素貞』と名乗っていた少女の頃のように、頬を桜色に染めて立っている。
 どうやら、手を付けたことになっているらしい。
 子作りを前提とした付き合い、というのは、まだ十代の舜には微妙なものだが、血族のいない、たった独りの霊獣の孤独に触れたような気もして、さっきの腹立ちもいつの間にか消えていた。
 いつものように、黄帝の手のひらの上で踊らされているような気もするが、白龍の姫の清廉さは、黄帝の企みさえ及ばないものに違いない。
 彼女は本当に、一族の血を絶やさないために、己の務めを果たそうとしているだけなのだから。
「……若飛は何か言ってたか?」
 静かに、白龍の姫の前に手を差し出して、舜は訊いた。
 あの日、紫禁城にいなかった彼女が、デューイが『和氏の璧』を失くしたことを知っているはずもなく、きっと、『璧』を探し出した若飛から、言付かったに違いないのだから。
「お母さまを大切に、と……」
「……」
 それは、若飛の精一杯の礼の言葉であったのだろう。
 舜は『和氏の璧』を受け取って、
「ほら、もう失くすなよ」
 と、デューイに渡した。
 涙もろいデューイは、若飛からの伝言に、すでに鼻を啜り上げている。
 何故かあの日、白蛇の姿で舜の鼻に咬みついた、同じ年頃の素貞の姿が甦った。
 ――急に大人になられても、困るよな。
 もちろん、舜には急であっても、彼女には四〇〇年の星霜が流れているのだが。
「オレ……」
「さあ、竜宮へ参りましょう、舜」
「は?」
「神聖な竜宮でこそ、尊い契りは交わされるべきなのです」
「……っていうか、まだ手が麻痺したままなんだけど、その契りとやらの最中に、霊力をうっかり開放したりしないだろうな?」
 この手の麻痺がどれくらいで治るものなのかも判らないと言うのに、『あそこ』までもが麻痺して使いものにならなくなってしまったら、この先の人生が閉ざされてしまうことは間違いない。
「さて。それもそなたしだいであろう」
「――くそっ。もしそうなったら、恨んでやるからな」
 もちろん、黄帝を、である。
 そんな訳で、時空を超えたお見合いはすれ違いに終わったが、四〇〇年後に果たされることになったのだから、善しとしよう。
『和氏の璧』もまた、四〇〇年後に、非の打ちどころのない『完璧』という言葉を世に創り出すこととなったのだから……。




                   了




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