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十夜 和氏(かし)の璧(へき)

十夜 和氏の璧 26

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「おかー……さん?」
 少し戸惑うような、呟きにも似た声が、下方から聞こえた。
 蛇の力が、少し弱まる。
 だが、舜は逃げようとはしなかった。
「オレを抱きしめてたって……しょうがないだろ……? あんたがその手に抱きたいのは……誰だよ?」
 体の振動で言葉を伝えるように、声を絞る。
 蛇は何も言わずに、黙っていた。
「おかーさん……。そんな姿では、判りませんでした。私の母だと、言ってくだされば良かったのに……」
 若飛の声が、再び届いた。
 どうやら、ここへ来るまでに、デューイから大凡のことは聞いているらしい。
「どうして名乗ってくださらなかったのですか? こんなにも近くにおられるのに」
 続く言葉に、蛇の巨躯が細かく震えた。
 泣いている――涙はなくとも、嗚咽はなくとも、側にいる舜には、それが解った。
「わたしはここで文字も計算も教わり、色々な仕事をさせていただいています。お会いできると解っていたら、話したいことを全部書き出しておいたのに……。あまりに突然で、何を話していいのかも、わかりません……」
 若飛の目から、ポロポロと涙が零れ落ちた。
 その細い指が、鱗に覆われる蛇の巨躯を抱きしめる。
 また、蛇の体が細かく震えた。
 舜は何も言わず――いや、言う必要もなく、黙っていた。
 母と子の間に、他人が口出し出来ることなど何もない。たとえ生まれてすぐに生き別れた母子であろうと、会えばすぐに心が繋がる。
「きっと、あなたが知るわたしは、抱きしめてもらうだけの赤子でした。――でも、今は……」
 今はこうして、抱きしめてあげることが出来る。
「おかーさん……」
 頬を蛇の巨躯に寄せる若飛に、別の感触が伝わったのは、その時だった。
 鎌首をもたげていた蛇の姿が霧のように静かに霧散し、鱗が剥がれ、昔のままの若飛の母が姿を現す。
『若飛……』
 我が子に抱きしめられるその母の姿は、誰よりも幸福そうで、そして、何とも言えない表情をしていた。
 紛れもなく、若飛の幸せだけを願い、見守っていた頃の姿である。
『幸せ……なのですか?』
 母が訊いた。
「はい。仕事が辛いこともありますが、わたしが働いて、おかーさんに楽をさせてあげたかった」
『……』
 若飛の母は、ただ息子の胸に顔を埋めて泣くばかりで、言葉も続けられない様子だった。そして、いつしか、震える肩が薄れ始め、向こう側さえ透けるように、希薄になる。
「おかーさん……?」
 戸惑いを浮かべる若飛の言葉に、
『ありがとう……若飛……』
 その言葉だけを残して、若飛の母は、姿を消した。
 腕に包んでいた感触も消え、彼女がもうこの世界の何処にもいないことを、伝えるように――。
「まだ……何も話していないのに……」
 喪失感と後悔に指を結び、若飛は茫然と立ち尽くした。
「死んだ人間とは話せない。それが世のことわりだ」
 舜は言った。
「でも――」
「全部伝わったさ。親子なんだから……」
「……そうでしょうか?」
「ああ」
 だから、やっと成仏できたのだ……。


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