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十夜 和氏(かし)の璧(へき)

十夜 和氏の璧 15

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「待てよ! 落ち着けって――」
 蛇の怨霊を相手に、落ち着けも待てもないと思うが、この少年、結構、真面目にそういうことを言っていたりするから、そんなところは父親譲りである。もちろん、父親にこれっぽっちも似たくない、と思っている舜には、思いたくもないことであろうが。
「何か想い残してることがあるんだろ? ――うわああっ! だから待てって!」
 どうやら、蛇の方は取り合ってはくれないらしい。
 以前、舜が共に過ごした死霊は、生前に想いを寄せていた人間を、殺してでも手に入れようとしていたが――生きている時は告白すら出来なかったというのに――死んでしまうと、生きていた時とエゴの度合いが変わってしまうらしいから、この蛇も生前はもっと温厚な生き物だったのかもしれない。
 だが、今は――。
『……退け!』
 聞いちゃいない。
 それでも、言葉を話すからには、舜が言っていることも少しは伝わってはいるはずである。
「一体、何がしたいんだよ? 何のためにここにいるんだ?」
 蛇の攻撃を躱しながら、言葉を続ける。
 何しろ、相手は力が通用しない怨霊である。話しをする以外に、引き止める手段もないではないか。
 黄帝もあの時、死霊に成仏をすすめていたし。
 もちろん、それが蛇に通じるかと言えば――。
 再び、口を開いて、シャーシャーと威嚇音を立てながら、向かって来る。その攻撃を躱し――た途端、強靭な尾が舜の体を弾き飛ばした。
「ぐ――っ!」
 絢爛な建造物に激しく叩きつけられ、全身が潰れるほどの痛みが駆け抜ける。
 そこへ、蛇が鎌首をもたげて襲いかかって来たではないか。
 濡れ光る牙が、舜を喰らおうと恐ろしい形相で迫り来る。
 もちろん、逃げなくてはならない。
 だが、舜の体は宮殿の壁にり込んでいて、痛む体で抜け出すことも適わない。
 目の前で、シャーシャーという厭な威嚇音が吐き出される。
 ――動けない。
 喰われる――そう思った刹那、蛇の体が何かに当たって弾かれるように、け反った。
 だが、一体、何が起こったというのだろうか。
「……やっと来たか」
 舜は、苦痛の中で、それだけの言葉を吐き出した。
 たった今、舜の体は『和氏の璧』の結界の中へと含まれたのだ。恐らく、舜の位置から百歩以内のところに、若飛が近づいて来たのに違いない。
 蛇は、突如として現れた結界に怒り狂い、それでも、『和氏の璧』の結界に圧されて、ジリジリと後ろに退いて行く。
 そうする内に、舜の元に、若飛一人が姿を見せた。デューイの姿は、ない。若飛一人だけである。
 どうやら、『和氏の璧』を持っていると、蛇の邪心に阻まれて、それ以上進めず、デューイに『璧』を返して、一人でここまで来たらしい。
「あの蛇を知っているか?」
 舜は訊いた。
 り込んでいた建物からも、やっとのことで何とか抜け出す。
 だが、若飛は即座に首を振り、
「い、いいえ、とんでもない! あんな恐ろしい――」
 と、巨大な蛇を震えながら見上げる。
 もちろん、その蛇に自分が取り憑かれていたことも知らないのだろう。
『若飛……』
 金色の双眸が若飛を見つけて、名前を呼んだ。
「へ、蛇の化け物が喋った!」
 名前を呼ばれたことよりも、物の怪が喋ったことの方に驚いたようで、若飛は怯えて後ずさった。
『……化け物?』
 いわれ無き言葉を聞くように、蛇が言った。
 まるで、己が今、どんな姿をしているのかさえも知らないように。
『この私を……。母を……化け物と……?』
「――母?」
 舜が眉を寄せた時、蛇の姿は薄くかすれ、霧が瞬く間に晴れるように、その姿も霧散した。


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