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十夜 和氏(かし)の璧(へき)
十夜 和氏の璧 4
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紫禁城は、正門である承天門(天安門)を南門とし、北に北安門、東に東安門、西に西安門の四門を持ち、南北に三キロ、東西に二.五キロの内城を、皇城という。
承天門を北に、端門を越えると、午門がある。
これが、紫禁城の正門に当たる。
この午門までは、承天門の東西にある長安門から、一キロもある。
そして、南北に一キロ、東西に〇.六七キロもあるその城の外側には、大きな濠が張り巡らされ、当然のことながら人民は門の中へは入れない。
「……確か、メシ食ってたよな、さっきまで」
デューイから、紫禁城についての一通りの説明を聞き終えて、舜はぐったりと肩を落とした。
「そうだったかなァ。よく覚えてないけど」
キョロキョロと辺りを見回しながら、本物の――いや、明代の、と言うべきか――の紫禁城を前にして、デューイはもう胸を躍らせるように、頬を紅潮させて、この壮大な建造物を見渡していた。
アジアの――特に中国の歴史や文化に興味を持つために、彼にはこのまたとない機会が、とっておきのギフトのように感じるのだ。
「やっぱり、あの得体の知れない璧のせいだ」
憮然とした顔で、瞬は言った。
黄帝が、あんなものを持ち帰ったせいで、こんな目に遭ってしまったのに違いない。――そう思っていたのだが、
「璧? 璧って、これのことかい?」
そう言いながらデューイがポケットから取り出したのは、間違いなく黄帝が言っていた、色・形・大きさのものであった。
「うわああっ! 何でそんなもん、あんだが持ってるんだよ!」
舜は大仰に飛び退いて、あっけらかんとしたデューイの言葉に後ずさった。
これ以上関わりたくはない代物である。
だが――、
「これ? これは黄帝様がくださったんだ。百歩以内に邪気や毒気を寄せつけないお守りだから、災いが降りかかるのを防いでくれるって」
「……そんな言葉を信じたのか?」
「へ?」
「あいつが、そんないいもんを寄越すわけがないだろ。大体、それのせいで、オレたちはこんなところに飛ばされて来たってのに」
「それは、この璧のせいじゃないと思うけど……」
「それのせいじゃなきゃ、黄帝の嫌がらせだな」
とことん、あの銀髪の青年を信用していないのである、この少年。そして、それが一概に舜の被害妄想だと言えないから、問題である。
「そんなもん、さっさと捨てちまえって」
そんな舜の言葉にも、
「そ、そんなことは……。黄帝様からいただいたものなのに――。生涯、大切に身につけておかないと」
デューイは全く逆の考えである。
二人がそうして璧を巡って、ああでもない、こうでもない、と言い合っていると、突然、空が暗くなり始め、瞬く間に大粒の雨が降り出した。
まさに、土砂降りという表現がぴったりの大雨で、二人とも、あっという間にずぶ濡れになる。
周囲が霞むほどのその雨は、まさに滝のような雨だったのだ。
「ほら、見ろ。そんなもんを持ってるから、こんな目に遭うんだよ。オレは濡れるのが嫌いなんだ」
さらに仏頂面になって、舜は言った。
「それとこれとは関係ないと……」
はっきり違うと言えばいいのだろうが、デューイとしては、その少年に嫌われたくないために、そう思っていても強くは言えない。
何しろ、このアメリカ人青年ときたら――。いや、その前に、この土砂降りの中を、誰かが明代の装束の袖で雨を防ぎながら、急ぎ足で駆けて来る。
もちろん、それでもすでにずぶ濡れなのだが。
だが、雨はほんの局地的な通り雨だったようで、瞬時に当たりを水溜りにすると、これもまた瞬時にきれいさっぱり上がってしまった。
そして、駆けて来た人物が足を止め、舜とデューイの姿を目に止めると、
「ひっ」
と、短い悲鳴を上げて、そのまま二、三歩退いた。
この明代に、現代風の舜とデューイの装いは、明らかに異端なものであっただろう。――いや、その人物が退いたのは、舜の人間離れした麗容と、異国の民であるデューイの顔立ち、そして何よりも二人から放たれる、人外の畏怖すべき雰囲気のためであっただろうか。
その人物は、すでに水溜まりになっている地面にひれ伏し、額を擦りつけるようにして、
「こ、これは女魃様――! どうかご無礼をお許しくださいませ」
と、顔を上げることも出来ない、と言うように、地面を見つめたままで恭しく言った。
もちろん、舜には何を言われているのか判らない。
「何だ、こいつ?」
と、訝しげに眉を寄せて、デューイを見上げる。
「女魃……。何だろ? 名前かな? ――とにかく、どこかに隠れないと。この時代に、この恰好はマズイだろうし」
「じゃあ、こいつに案内させよう」
「舜! ダメだって! 外の人間を勝手に城内に入れたと思われたら、彼が――」
「こんなところでグズグズしてたら、すぐに誰かに見つかるぞ」
「……」
そう言われては、デューイも何も言えないようで……。
承天門を北に、端門を越えると、午門がある。
これが、紫禁城の正門に当たる。
この午門までは、承天門の東西にある長安門から、一キロもある。
そして、南北に一キロ、東西に〇.六七キロもあるその城の外側には、大きな濠が張り巡らされ、当然のことながら人民は門の中へは入れない。
「……確か、メシ食ってたよな、さっきまで」
デューイから、紫禁城についての一通りの説明を聞き終えて、舜はぐったりと肩を落とした。
「そうだったかなァ。よく覚えてないけど」
キョロキョロと辺りを見回しながら、本物の――いや、明代の、と言うべきか――の紫禁城を前にして、デューイはもう胸を躍らせるように、頬を紅潮させて、この壮大な建造物を見渡していた。
アジアの――特に中国の歴史や文化に興味を持つために、彼にはこのまたとない機会が、とっておきのギフトのように感じるのだ。
「やっぱり、あの得体の知れない璧のせいだ」
憮然とした顔で、瞬は言った。
黄帝が、あんなものを持ち帰ったせいで、こんな目に遭ってしまったのに違いない。――そう思っていたのだが、
「璧? 璧って、これのことかい?」
そう言いながらデューイがポケットから取り出したのは、間違いなく黄帝が言っていた、色・形・大きさのものであった。
「うわああっ! 何でそんなもん、あんだが持ってるんだよ!」
舜は大仰に飛び退いて、あっけらかんとしたデューイの言葉に後ずさった。
これ以上関わりたくはない代物である。
だが――、
「これ? これは黄帝様がくださったんだ。百歩以内に邪気や毒気を寄せつけないお守りだから、災いが降りかかるのを防いでくれるって」
「……そんな言葉を信じたのか?」
「へ?」
「あいつが、そんないいもんを寄越すわけがないだろ。大体、それのせいで、オレたちはこんなところに飛ばされて来たってのに」
「それは、この璧のせいじゃないと思うけど……」
「それのせいじゃなきゃ、黄帝の嫌がらせだな」
とことん、あの銀髪の青年を信用していないのである、この少年。そして、それが一概に舜の被害妄想だと言えないから、問題である。
「そんなもん、さっさと捨てちまえって」
そんな舜の言葉にも、
「そ、そんなことは……。黄帝様からいただいたものなのに――。生涯、大切に身につけておかないと」
デューイは全く逆の考えである。
二人がそうして璧を巡って、ああでもない、こうでもない、と言い合っていると、突然、空が暗くなり始め、瞬く間に大粒の雨が降り出した。
まさに、土砂降りという表現がぴったりの大雨で、二人とも、あっという間にずぶ濡れになる。
周囲が霞むほどのその雨は、まさに滝のような雨だったのだ。
「ほら、見ろ。そんなもんを持ってるから、こんな目に遭うんだよ。オレは濡れるのが嫌いなんだ」
さらに仏頂面になって、舜は言った。
「それとこれとは関係ないと……」
はっきり違うと言えばいいのだろうが、デューイとしては、その少年に嫌われたくないために、そう思っていても強くは言えない。
何しろ、このアメリカ人青年ときたら――。いや、その前に、この土砂降りの中を、誰かが明代の装束の袖で雨を防ぎながら、急ぎ足で駆けて来る。
もちろん、それでもすでにずぶ濡れなのだが。
だが、雨はほんの局地的な通り雨だったようで、瞬時に当たりを水溜りにすると、これもまた瞬時にきれいさっぱり上がってしまった。
そして、駆けて来た人物が足を止め、舜とデューイの姿を目に止めると、
「ひっ」
と、短い悲鳴を上げて、そのまま二、三歩退いた。
この明代に、現代風の舜とデューイの装いは、明らかに異端なものであっただろう。――いや、その人物が退いたのは、舜の人間離れした麗容と、異国の民であるデューイの顔立ち、そして何よりも二人から放たれる、人外の畏怖すべき雰囲気のためであっただろうか。
その人物は、すでに水溜まりになっている地面にひれ伏し、額を擦りつけるようにして、
「こ、これは女魃様――! どうかご無礼をお許しくださいませ」
と、顔を上げることも出来ない、と言うように、地面を見つめたままで恭しく言った。
もちろん、舜には何を言われているのか判らない。
「何だ、こいつ?」
と、訝しげに眉を寄せて、デューイを見上げる。
「女魃……。何だろ? 名前かな? ――とにかく、どこかに隠れないと。この時代に、この恰好はマズイだろうし」
「じゃあ、こいつに案内させよう」
「舜! ダメだって! 外の人間を勝手に城内に入れたと思われたら、彼が――」
「こんなところでグズグズしてたら、すぐに誰かに見つかるぞ」
「……」
そう言われては、デューイも何も言えないようで……。
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