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十夜 和氏(かし)の璧(へき)
十夜 和氏の璧 1
しおりを挟む「ああ、舜くん、違いますよ。かんぺきの『璧』は『壁』ではなく『璧』と書くのです。その字では、完全無欠な『完璧』ではなく、ただの完成した壁になってしまいますよ」
何やら紙に書きつけている舜の背後から覗き込み、今日も今日とて、のんびりとした口調で、黄帝は言った。
見かけは二七、八歳の青年である。透き通るような銀色の髪を足首まで伸ばし、いつの時代のものか解らない、青灰色のタイトな織物を身につけている。
だが、彼がその見た目通りの青年ではなく、この世が天と地に分かたれた太初から存在しているような得体の知れない化け物――いや、失礼、人物であるということはご存じのとおり、こんな雲海と岩山しかない秘境に棲んでいることも、謎の多い青年なのである。
そして、その青年の息子だという少年、舜――。
彼は今、珍しく机に向かって、朝から――いや、夕暮れからずっとペンを走らせている。
それを少し覗いてみると、
〈炎帝を倒すための完壁(注:誤字)な作戦……〉
なる文字が見える。
黄帝の言葉も、その誤字を見てのモノだったのである。
しかし、父親ならもっと別の――誤字ではなく、その内容に対してのアドバイスなり、情報なりを優しく教える……などということはあり得ないのだ、その青年に限っては。
もちろん、息子である舜にしても、黄帝のアドバイスなど、何か裏があるのでは、と気味悪くて素直に聞くことなど出来ないし、聞くつもりもない。
この少年、過去に何度も、この見かけだけはのんびりとした父親のせいで、酷い目に遭っているのである。
「字なんかどうでもいいだろ! 勝手に見るなよ」
誤字を指摘された恥ずかしさもあり、舜は蒼白い頬に血の気を集めて、ぶっきらぼうに言った。――と言っても、彼が病弱で我儘な少年というわけではない。肌が蒼白いのは、彼の一族の特徴である。
人外の美貌だけをみれば、二人は確かに親子なのだろうが、舜がそれを喜んでいるかどうか……まあ、あまり突っ込まないでおこう。
「勝手に、と言われても……。デューイさんから、君が私を探している、と聞いたので来てみたのですが」
ここは一応、舜の部屋である。街に住む母親が見立ててくれた、十六、七歳の少年に相応しい家具調度で整えられている。
標高一九〇〇メートルにも達する奇峰の最高峰に、刳り抜くようにして造られた家でありながら、中は岩肌が剥き出しになっている訳ではなく、大理石張りや、素材の解らない石のような、土のようなものでコーティングされていたりする。
「いつの話をしてるんだよ。そんなのもう、一ヶ月も前の話じゃないか」
むっつりとした口調で舜が言うと、黄帝が窘めるような口調で、
「舜くん――」
「訊きたいことがあって、一ヶ月ほど前にお父様を探していました! でも見つからないので諦めてこうして書き始めたところですっ!」
乱暴な言葉を正して、舜は言った。
世界で一番嫌いなのはこの父親だが、一番怖いものもこの父親なのだ。
黄帝を怒らせる前に言葉を正すことは、もう習慣のようなものである。それならば、最初から丁寧な言葉遣いで受け応えをすればいいと思うのだが……その辺りがまだ十六、七歳の子供なのである。
「それは悪いことをしましたねぇ。少し探し物をしていたので、あちこち飛び回っていたのですよ」
心底申し訳なさそうに――は見えない顔で、黄帝は言った。
ちなみに、この黄帝の『飛び回っていた』という言葉は比喩ではなく、実際に翼を広げて飛び回っていたのである。今は背中に同化していて見えないが、一族の中で黄帝と、その息子の舜だけが、その漆黒の美しい翼を有しているのだ。もっとも、舜の翼は、今、ある事情で使うことは出来ないのだが……。
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