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八夜 火鴉(かう)の禍矢(まがつや)

八夜 火鴉の禍矢 8

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 黄の逃亡の話は、空が暗くなり始める頃には、もう一族中に知れ渡っていた。
 嫦娥を殺し、《火鴉の禍矢》を持ち去った反逆者として――。そう。黄は、嫦娥を殺しただけでなく、あの《火鴉の禍矢》まで持ち去っていたのだ。
 誰もがその無謀さに驚いていたが、黒帝はそう驚くでもなく、一週間が過ぎた今でも、変わりない様子で過ごしていた。
 もちろん、捜索隊は出ていたが、それも急かせているようには、見えなかった。
「愚かなことを。あやつの力ごときで操れるような代物ではないというのに。火鴉の力に焼き尽くされて、灰と化すのがオチだろう。――のう、炎よ」
 黒帝は、傍らに控える炎に、嘲笑うかのような口調で、声をかけた。
 一週間前、炎は、黄の逃走をいち早く黒帝に伝えに来たのだ。そして、今も、黒帝の忠実な配下として、働いている。
「私も、でしょうか?」
 炎は訊いた。
 今の黄より力は上とはいえ、炎も、黒帝から見れば、取るに足らない存在なのだ。黄と同じく、火鴉の力に焼き尽くされてしまうことは、充分、有り得る。
「かも知れぬな。――だが、そなたは、私が炎の名を与えてやった者――。黄のように急がねば、いずれ、《火鴉の禍矢》を扱えるだけの力を持つであろう」
「……」
 いずれ――。そう。待っていれば、いずれ、炎の手に入るものなのだ、その凄まじい火鴉の力は。
「来い、炎よ。我が忠実なる愛し子……」
 黒帝の手が、玉座の脇に立つ炎へと、妖しく伸びた。
 刹那、周囲の雰囲気が、不意に変わった。――いや、雰囲気だけではなく、部屋の造りそのものも、変化している。
 深い闇の渦巻く、世界である。
 混沌たる光と影が囁き合い、血の泉を湧かせている。
 床は、氷よりもさらに冷たく、空気は、水よりも濃く、犯されている。
 不思議な――そして、異様な世界であった。
 歪んでいる、とも見えるし、沈んでいる、とも見える。
「ここは……?」
 炎は、突如として迷い込んだ異質の世界に、戸惑いながら、問いかけた。
「年若きそなたには、解らぬか。これが、まことの私の館だ。外に見えている部分など、あやかしに過ぎぬ。人間でさえも立ち入れてしまうような、な」
 その声は、炎のすぐ耳元で、静かに響いた。
 いつの間にか、黒帝は、炎のすぐ背後に、立っていたのだ。気配さえ立てず――いや、炎には読み取ることが出来ない、わずかな気配で、刹那の内に。まるで、この空間の中なら、黒帝は、どこにでも瞬時に移動できるかのように。
 長く蒼い指先が、炎の首筋から顎へと、ゆうるりと、這った。
「……黒帝様?」
「まだ細い首だ……。この小さな顎も、滑らかな肌も、血で染めてみたいと思わずにいられないほどに……美しい……」
 淫靡な囁きが、指先に、堕ちた。
 刹那、輝くような闇が炸裂し、炎の衣が、塵と化して、砕け散った。
 黒帝の指が衣に触れただけで、砕けたのだ。
 炎は咄嗟に、身を引いたが――。
「恐れずともよい。そなたが朕に忠実であるのなら、な」
 黒帝の指が、全裸に剥かれた炎の肢体を、背後から、這った。
 形良く整う肩から、腕に。
 若鹿のような足から、腰に。
 そして、一番、敏感なその部分に。
 指が求めるその動きに、炎は息を呑んで、呼吸を止めた。
 体は、否応もなく、反応していく。
「そなたと黄は、まるで兄弟のようであったな。――いや、そなたが黄を追いかけていた、というべきか」
 変化していく形をなぞりながら、黒帝が言った。
 指は、若き部分をゆうるりと扱き、雄々しい形に、育てて行く。
 慣れた動きで、強く、巧みに。
「く……」
 炎の中心は、すでに堅く張り詰めていた。
 今にも弾けそうな先端から、官能の雫が、伝い落ちる。
 刹那であった。


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