上 下
141 / 533
六夜 鵲(チュエ)の橋

六夜 鵲の橋 3

しおりを挟む


「だけど、でっかい家だよなぁ……。まあ、考えてみりゃ、金持ちのお坊っちゃまでもなきゃ、上海の高級ホテルに泊まって、働きもせずに、カメラマンの卵なんて酔狂なこと、やってられなかっただろうけど」
 それだけで立派そうな門をくぐって、舜は、堂々たる屋敷を、高く見上げた。
 このロシアン・ヒル、もともとが高級住宅街なので、他にも立派な屋敷はいくつもあるのだが、その中でも、デューイの屋敷は見劣りしないのである。
「そ、そんなことは……。中の広さを言うなら君の家の方が――。第一、彼所に何百室あるのか、ぼくにはまだ解らないし……」
「オレだって知らないさ。黄帝もボケてるから、もう部屋数なんて覚えてないだろーし」
 ここで舜が言う『黄帝』とは、自らの父親のことである。
 今回の、このサンフランシスコ行きも、その父親、黄帝の口から零れたものなのだ。
 そろそろデューイも、『夜の一族』の体に慣れて来たので、一度、家族の元へ帰ってはどうか、と。
 デューイが、ほんの十日間ほど滞在するつもりで上海に出掛けたのが、一年と数カ月前、それから、デューイは、ある事情のために、このサンフランシスコに帰って来ることが出来なかったのである。
 そんなデューイの里帰りに、舜が喜んで便乗したことは、言うまでもない。
 この少年、父親の元から離れられるのなら、それだけで満足なのである。
 デューイをまだ一人で帰すのは心配だから、と心にもない理由で、ついて来た。
「おかしいな」
 デューイが言った。
 玄関の呼び鈴を鳴らしての言葉、である。実は、タクシーを降りた時にも、同じ言葉を呟いたのだが、それは、街を見下ろす舜の言葉に、掻き消されてしまったのだ。その時は、門についているインターホンを押しても、何の応答もなかったための、呟きであった。
 そして、今は、玄関の呼び鈴――。
 中からの応答は、一切、ない。
 仕方がないので、デューイは、自分の鍵を使って、ドアを開いた。
 明かりは、煌々と、灯っている。
 それでも、異様に静かであった。
 考えられることは、といえば、久しぶりのデューイの帰国に、家族がデューイを驚かせよう、と奥の部屋で息をひそめている、ということである。
 しかし、それなら、明かりが消えているのが普通で、明かりが点いた途端、目の前にはでっかいケーキがあって、クラッカーの弾ける音がする、というのが基本である。
 それに――。
「人がいるとは思えないな」
 舜が言った。
 そう――。家の中に、人の気配は、全くない、のだ。
 舜の一族は――つまり、デューイの仲間入りした『一族』は、普通の人間より、ずっと優れた能力を持ち、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚……その五感はもちろん、第六感にも優れている。
 人がいれば、その気配はすぐに、判るはずなのだ。
 しかし、今は、それが、ない。危険がある、とは感じられないが、それでも、奇妙なことは、確かであった。
 二人は取り敢えず、右手にある豪華なリビングへと、足を向けた。いつもなら、一家だんらんの場所となっている一室である。
「今日着く、って、ちゃんと手紙に書いといたんだろ?」
 誰もいない部屋を見渡して、舜は訊いた。
 広い部屋には、猫の仔一匹、いはしない。
「ああ……」
 デューイは不安そうである。
 わざわざ屋敷中を探し歩かなくても、人がいないことは判っているのだ。家族はもちろん、使用人の一人さえ。
 革張りの、豪華なソファの横を回ると、血塗れの死体が――あることもなく、ただ静けさだけが、蔓延っている。
「あ、何かあるぜ」
 ソファの前のテーブルに置かれた、一枚の白い紙を見て、舜は言った。
 何か、文字が書いてある。
「んー、こりゃ、遺書だな。ほら、一家心中の」
 そんな心ない舜の言葉に、デューイはもう真っ蒼になっている。
『夜の一族』の仲間入りをしたのだから、舜と同じに、もともと顔色は悪いのだが。
 急いで、その白い紙を拾い上げ、インクの文字を、追い始める。


しおりを挟む

処理中です...