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五夜 木乃伊(ミイラ)の洞窟(ペチェル)

五夜 木乃伊の洞窟 2

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「あの、もしかすると、気分が悪くなっていたりするかも知れないし、CAさんに様子を見て来てもらった方が……」
「大丈夫ですよ。あなたは安心して休んでいてください」
 父親なら、もう少し心配してほしい。
 まあ、子供を信頼するのは大切なことなのだろうが……この青年の場合、一概にそうとも言えないのである。何しろ、この青年、自分の息子が気分が悪くて寝込んでいても、頭を踏んずけて歩くような父親なのである――と、当の息子である舜は、言っている。
「黄帝様がそうおっしゃるのなら……」
 納得してしまう方も納得してしまう方だが、さっきも言ったように、このデューイというアメリカ人青年、黄帝に絶対的な信頼をおいているのだ。
「でも、どうして舜だけ座席が離れてしまったのでしょうか? 春のこの時期に、席が取れないほど飛行機が混むなんて……」
 白夜のシーズンや、七、八月の観光シーズンならともかく、今は厳しい冬がやっと終わったばかりの季節なのである。 しかも、今日思い立って、急いで飛行機に乗り込んだ訳でもなく、以前からきちんと予約している。
「おや、言っていませんでしたか?」
「え?」
「舜くんが、どうしても私と一緒に乗るのは厭だ、というので、わざわざ離れた席を予約したのですよ。あの子の我が儘さには、本当に手を焼かされます」
 はぁ、と疲れるように溜め息をついて、やはりのんびりとした口調で、黄帝は言った。
 子供もあれくらいの年になると、親から離れたくなるものなのである。――といっても、飛行機の席まで別にしたがる、というのは、少々極端すぎるような気がしないでもないが。
 それに、この青年の息子なら、多く見積もっても、六、七歳の幼子であるはずだ。
 もちろん、それは、その青年が二七、八歳だとして、の仮定であるが。
「あの、舜はどの辺りに……」
 自分は座席に張り付いたまま動けないので、デューイはそれを知る唯一の手段として、黄帝に訊いた。
 乗る前から緊張していたために――それに、まさか座席が離れているなどとは思ってもいなかったために、そんなことまで気にしてはいなかったのだ。
 黄帝の方は、
「うーん……。どこだったでしょうねぇ……。年を取ると忘れっぽくなってしまって……。確か、空港にはちゃんといたと思うのですが、乗る時までは気にしていませんでしたから」
「は、はあ……」
「ああ、そうそう。確か、エコノミーを取ったのではなかったでしょうか」
「へ……?」
 ここは、ファースト・クラスである。しかも、日本の航空会社がサービスがいい、というので、わざわざ日本まで行ってから、この旅客機に乗り込んでいる。
「同じ空気も吸いたくない、ということでしたので、そうしたのですよ。今、思い出しました」
 やはり、この父親、何を考えているのか解らない。まあ、人それぞれに教育方針、というものがあるのだろうから、他人が口を挟んだりしてはならないのだろうが。
「眠れないのでしたら、催眠術でもかけてあげましょうか、デューイさん?」
 飽くまでも、客人であるデューイには優しいのである、この青年……。




 一方、一人でエコノミーに乗っている舜の方は――。
「あー、やっぱり、あのボケおやじと、変態のアメリカ人がいないと、ホッとする」
 結構――どころか、これ以上はないほど、くつろいでいたりする。
 もっとも、飛行機に乗るのも初めてで、ファースト・クラスが、どれほど心地良いものであるのかも、知らないのだが。
 何しろ、山から下りるのも四度目、という、田舎者の典型のような少年なのである。
 物心付いた時から、ずっと中国の山奥で父親たる黄帝と二人で暮らし、つい最近まで、自分の目で外の世界を見たこともなかったのだ。
 もちろん、見たことはなくても困らない程度の知識は持っている。 それに、元来、物怖ものおじしない性格なのだから、不安もあるまい。今は、父親から離れることが出来て、万々歳、という訳である。
 こちらは黄帝とは違って、見た目も精神こころも十六、七歳の少年である。あの青年の息子だけあって、さすがに端麗に整った面貌をしている。夜の精霊のような射干玉の瞳も、さらさらとした黒髪も。誰もが見惚れるような、麗容である。
 あの青年もそうだが、普通の人間とは、どこか違う雰囲気を持っているのだ。普通の人間には絶対に持ち得ない、神秘、とでも言えるようなものを。
 彼を見て、山奥で育った田舎者の少年、というイメージを持つ者は、いないだろう。
 蒼い夜の天空にこそ、相応しいと思える少年なのだ。
 今日は、あの青年と同様、貴族の子弟のようなスーツに身を包んでいる。普段から現代的な服装をしてはいるのだが、山奥での暮らしなので、スーツを着るのは初めてである。
 まあ、それで、性格の方まで変わる、という訳ではないのだが……。



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