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四夜 燭陰(しょくいん)の玉(ぎょく)

四夜 燭陰の玉 13

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 不意に、目の前に、凄まじい妖気を含む炎が、立ち昇った。
「うわあっ!」
 樹誠は、明如をかばうようにしてうずくまり、やがて、それに気がついた。
 熱くない、のだ。
 目の前にある炎は、確かに熱を持ってはいるものの、肌を焼くほどに熱くは、ない。
「私を《燭龍》と呼ぶ人の子よ。どこでその名を聞いたか、話してもらおう」
 暗い部屋から、さらに暗い色の髪を持つ、麗しき神が、姿を見せた。
 顎の下で切り揃えられた針のような髪も、燃え盛る炎のような冷酷さを持つ黒瞳も、神としか言いようのないものであった。――いや、人を魅了するほどのその美貌は、魔物が持つべきものであっただろうか。
 神に、それほどの美しさと、魅惑は、ない。
 樹誠は、目の前に現れた麗人に、ぽっと頬を染めて、見入っていた。
 また、『黄帝様と同じくらいにきれいだ』と、考えもないことを言いかけたが、今度は喉の奥で圧し止めた。
 明如の方は、初めて見る人外の妖しき麗人を前に、もう言葉も忘れた様子で、ポカンとしている。
「黄帝の黄土に護られているとはいえ、私の炎は、あらゆる結界や封印を焼き尽くす。私が本気になれば、そなたらなど一瞬で灰も残さず消し去ってしまうことが出来るだろう」
 船の上での、娘の最後を見ていなかった二人には解らないだろうが、それは紛れもない事実である。
 だが――。
「黄土……?」
 樹誠は、くるくると自分の体を確かめた。
「霧の如き砂塵は、目には見えまい。そなたらは、他人の手で殺されることはない、ということだ。火山の噴火でも、また然り――。私の炎でも喰らわない限りは、な」
「……?」
 まだよく解っていないらしい。
 それでも、
「あの、あなたは……?」
 と、凄まじい美貌を持つ麗人を見て、問いかける。
「私の問いに応えもせずに、名を訊くか。畏れを知らぬ子供だ」
「あー、えーと、ぼくは樹誠です。こっちは、明如。ぼくの甥っ子なんですけど、ぼくのことを『にーさま』と呼ぶから、よく兄弟に間違われて――」
 誰もそんなことなど、訊いていない。
 どうやら、この少年、自己紹介を迫られた、と勘違いしているようである。
 それでも、炎帝の方は、さして気を悪くしていないようで、
「私は、炎帝――人の子は、そう呼ぶ」
 と、自らも、その名前を、口にした。
 常人とは掛け離れた能力を持つ魔物であるだけに、どこで気を悪くするのかも、見当がつかない。
「炎帝様……」
「そなたによく似た娘を見たことがある。京仔、という呪術師だが」
 炎帝は言った。
「あ、京仔はぼくの姉――双子の姉です。でも、村の人は、ぜんぜん似てないって……」
「かも知れぬな」
「へ?」
 解らないことを言う麗人である。
 まあ、人間に神の心が理解できれば、苦労はしないのだろうが。
 不意に、炎帝の指が、座り込む樹誠の顎に、優しく、掛かった。
 本当に不意に、いつの間に、と思うほど、その長く美しい指先は、樹誠の顎に掛かっていたのだ。
 そして、目の前には、赤光を放つ双眸が、閃いて、いた。
「あ……あ……」
 恐ろしさ、というよりも、体が一気に熱を持つような、それでいて、けだるい恍惚が襲うような、そんな不思議な時間が駆け抜けた。
「応えるがよい、人の子よ。燭龍は何処にいる?」
「しょく……りゅう……」
 樹誠は、茫としながら、その炎帝の言葉を、繰り返した。
 体中が痺れるような、意識が遠のいて行くような、そんな半眠のような感覚も、渦巻いていた。
 双眸が――。
 その赤き双眸が、そうさせるのだ。
 もちろん、それは、樹誠には解らないことであったが。


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