上 下
80 / 533
三夜 煬帝(ようだい)の柩

三夜 煬帝の柩 17

しおりを挟む


 その昔、炎帝は黄帝の封印によって、永きの眠りにつかされていた、という。どれくら昔のことなのかは計り得ないが、その炎帝が今、この地に目醒めていることだけは、確かであった。
 三五〇年前、炎帝と同じように眠りにつかされていた稀代の美女、貴妃が、大地に染み込む血を得て目を醒まし、封印されている炎帝を見つけ、血を与えて封印から逃れさせたらしい。炎帝の操る炎は、如何なる封印や結界をも焼き付くすのだ。永きに渡ってそれが出来なかったのは、彼が体内の血を全て失っていたためであった。今の舜と同じように。
 炎帝はまだ目醒めて数年、或いは数カ月しか経っていないために、以前の力――彼本来の力を全て取り戻してはいないようだが、それでも、今の舜にどうにか出来るような相手では、なかった。
 それは、夢枕に立った時に感じた妖力だけでも、充分、知り得る。
 それなら再び黄帝に、炎帝を封印してくれ、と頼めばよさそうなものなのだが――いや、舜が頼む以前に、黄帝が自発的にそうしていてもよさそうなものなのだが、あの青年、そんなことはしないのである。
 理由は、知らない。
 だが、黄帝と炎帝が本気で打付かり合えば、この地球など、あっと言う間に吹っ飛んでしまうことだろう。
 もちろん、黄帝がそれを危惧して戦いを避けているのだ、とは言わないが、地球上の人間にしてみれば、それだけは絶対にして欲しくないことであったに違いない。
 しかし、平和に思える今でも、毎日どこかで人が消え、不意に隣人がいなくなり、或いは家族が行方不明になり、と、炎帝の餌食になっている人間が大勢いることは間違いないのだ。あの麗人が、病院からせっせと血液を買って過ごしているとは思えない。
 手掛かりのない失踪事件や、蒸発、行方不明事件は、中国全土に――いや、世界各国に、掴みようがないほど蔓延している。新聞にも載らないままに、日常的な事件として片付けられていることが、無数にあるのだ。




「ねェ、かーさん。何であんな奴と結婚したのさ?」
 ごろごろとベッドに寝転がりながら、舜は、髪を結う母親に問いかけた。
 舜には不可解でならないことなのである。
 だが、碧雲は、
「まあ、舜はもう結婚に興味があるのですか?」
「そっ、そんなんじゃ――。あんな奴と結婚しなくても、かーさんなら、もっといい男が一杯いるのに、と思ったから……っ」
 黄帝以上の男などいないと思えるのだが、この少年に限っては、そうではないらしい。
「……年頃の娘なら、誰でも一度は夢に見るのですよ。あの方の妻になりたい、と」
「あいつの催眠術か何か?」
 クスクス、と楽しげな笑みが、零れ落ちた。
 そして、碧雲はそうして笑っただけで、他に何も言うことはしなかった。
 少女のように恥じらっている、とは、父親を嫌っている舜には、思いたくもないことであっただろう。
 舜は誰が見ても父親似であるが、母親にも似ていないことはない。もとより、舜の母親も黄帝の血を引いているのだから、そうであっても不思議ではない。系図を辿ると、碧雲は、黄帝の娘の息子の三番目か二番目の娘の――と、遥か末の子孫に当たるらしい。母方から見れば、舜にも、黄帝は遠い先祖に当たるのだ。
「あいつ、毎晩、違う女の処に夜ばいかけに行ってるんだよ(注・毎晩ではない)」
 一通りの悪口は、これまでに繰り返し並べ立てたのだが、また、その一つを蒸し返す。
 舜としては、母親に気にかけてもらいたい一心なのである。
「あなた以外のお子は連れて戻られないでしょう?」
 動じもせずに、碧雲は言った。
「隠し子はそこら中にいるかも知れない」
「あの方は……心を許された女の腹にしか、子を預けてはくださらないのですよ。大切なご自身の御子を、愛してもいない女性にお任せになるような方ではありませんから――。私は、あの方にあなたを預けていただいただけでも、幸福なのです」
「……」
 大人の世界、というのは、いまいち、舜には解らない。あの貴妃でさえ、一時は黄帝の妻であった、というのだから、余計に理解が不能である。
 まあ、時間だけは穏やかに過ぎ、舜も、心地よい母親との時間に、どっぷりと首まで浸かっていた。この後に待ち受けている黄帝との生活がなければ、頭の先まで浸かることが出来ていたのだが……。
「あと、たった三日か……」
 舜の呟きは、薄く消えた。



しおりを挟む

処理中です...