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三夜 煬帝(ようだい)の柩

三夜 煬帝の柩 2

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 さて、話が少し逸れてしまったが、このデューイという青年、もともとはカメラマンの卵で、アメリカから上海に訪れていた普通の人間であったのだが、舜と知り合い、ある出来事のとばっちりを受けて、彼らの『一族』として、ここで暮らすことになってしまったのだ。
 見た目で以前と変わったこと、といえば、顔色が少し蒼くなったことくらいであろう。
 四分の一、アジアの血が混じっているという彫りの深い面貌も、緩くウェーブを描いて肩に落ちる栗色の髪も、人の知る範囲の美で、優しげに、人が善さそうに、整っている。
 その彼が、夢も希望もある二五、六歳という年齢で、何故、こんな人里離れた辺境の地で暮らすことになってしまったのか、というと――。いや、それは後で追追と説明しよう。
 今は取り敢えず、目の前にある《聚首歓宴の盃》の話である。
 その盃は、今を溯ること三五〇年ほど前、何十万もの人間を殺し、稀代の殺人鬼と呼ばれた張献忠が、殺した者たちの生首を、ズラ、っと並べ、酌をして回った、という曰くつきのものであり、半年前の春、舜が黄帝からもらう――預けてもらう約束をしていたものである。
 何故、そんな盃を――首たちの宴、などと題された気味の悪い盃を、舜が欲しがっているのか、といえば――。
「早くよこせよっ。オレは、その盃をエサに、あいつを呼び出して倒してやるんだ」
 血気盛んな年頃である。
 黄帝の面が苦々しく変わったのも、仕方のないことであっただろう。それでも、のんびりとしている、としか見えないのだから、この青年、人ではない。
「あのですね、舜くん。私は、君のそういうところが不安なのですよ。私が何度言っても、君はその乱暴な言葉遣いを正そうとはしませんし――」
「ぼくに盃を預けてください、お父様」
 この少年、変わり身は早い。いきなり、丁寧な言葉遣いになっている。
 だが、決して目の前の青年を馬鹿にしている訳ではない。今の舜には、黄帝は、指一本触れることが出来ないほどに、恐ろしい存在なのだ。
「今ならぼくは、あいつを倒せるんだ。あの時はちょっと弱ってたから、止めを刺せなかったけど――」
 ここで、ずっとボーっとしていたデューイが口を挟むこになるのである。
「あの、舜。あいつ、って誰のことなんだ?」
 彼には、二人の話がさっぱり解っていないらしい。まあ、半年前のあの時、彼は催眠状態で意識も朦朧としていたのだから、仕方のないことだろう。
「あんたの首を女の親玉だよ」
 説明も面倒に、舜は言った。父親には逆らうことが出来なくても、自分より遥かに力の弱いデューイには、いついかなる時も偉そうなのである。
 だが、ここで一つだけ言っておくと、彼は決して、気の短い少年ではない。変人の父親と、思い込みの激しい変態の青年と話をする時だけ、妙に苛立ってしまうのだ、という。
「じゃあ、ぼくのために……」
 デューイは早くも勝手に思い込み、感激に瞳を潤ませている。この思い込みの激しさが、舜の苛立ちの原因なのである。
「誰があんたのためだって言――」
「デューイさんにそんな口を利くのはおやめなさい、舜くん。君が彼に迷惑をかけなければ、彼は普通の人間として、ずっと街で暮らすことが出来ていたのですよ」
 黄帝の言葉である。
 そして、舜には、何も言えなくなってしまう言葉でも、あった。
 確かに、デューイが人間でなくなってしまったのは、舜と拘わったためであり、そうでなくとも、この少年、父親に逆らえたことなど一度もないのだ。
 いつかは殴ってやる、と心に決めてはいるのだが、今もって、その『いつか』の目処は立っていない。ボケが始まっている年寄りであろうと(舜見立て)、とんでもない力を持つ化け物なのだ、目の前にいる青年は。
「すみませんね、デューイさん。親のぼくに似るのは厭だ、とか言って、わざと乱暴な言葉を使っているのですよ。どうも彼には、そういう乱暴な言葉の方が、格好良く見えるようで――。親のぼくの力が足りないせいなのでしょうねぇ……」
 ふぅ、と溜め息をつく姿も、堂に入っている。どころか、美しすぎる青年である。
「い、いえ、そんな――っ」
 デューイは首が千切れそうなほどに頭を振り、黄帝に謝られてしまったことに真っ蒼になっている。
 まあ、『夜の一族』なのだから、顔色はもともと良くないのだが。
 彼に取っては、黄帝は神にも等しい存在なのである。
 そして、舜にとっては、二人の会話は面白くないものであった。
「――で、ぼくとの話はどーなったんですか、お父様っ」
 と、時たまにしか使わない――黄帝が本気で怒る前にしか使わない丁寧な言葉で、突っ慳貧に言う。
 世界で一番嫌いなものは、目の前にいる父親なのだが、世界で一番怖いものも、目の前にいる父親なのである。
「えーと……。何の話をしてましたっけ?」
 ここで怒っては、いけない。これもいつものことなのである。ボケが始まっている年寄りの言葉だと、大目に見てやらなくてはならない。たとえ、下手をすれば、その手段で数カ月、話を引き延ばされることになったとしても。
「手に持ってるものを見ろよ」
 その言葉を吐くだけでも、舜の肩は憤りにぷるぷると震えていた。
 怒鳴り返さなくなっただけでも、舜にしてみれば、大きな進歩である。
「ああ、そうでした。この《聚首歓宴の盃》の話でしたね」
 しらじらしい、と舜が口の中で呟いたことは、まあ、大目に見てもいいだろう。


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