上 下
61 / 533
二夜 蜃(シェン)の楼(たかどの)

二夜 蜃の楼 27

しおりを挟む


「私を呼ぶなど、らしくもありませんね、蜃。今の舜くんが相手なら、衣の一振りで容易く倒せてしまうでしょうに――。何故、舜くんを殺すことをためらうのです?」
 どこかおっとりとした、何もかも見透かしているようなその口調は、間違いなく黄帝のものであった。
 だが、姿は見えない。暗闇の中、どこからともなく、その声だけが聞こえているのだ。
 呼んだ、というのだから、蜃の呼びかけに呼応して、この世界へと訪れたのだろう。
 だが、蜃は黄帝を呼んだであろうか。少なくとも、耳に届く声では、呼んではいない。
 なら、どうして――。
 もしかして彼は、どれほど離れた場所であろうとも、蜃気楼を送り出すことが出来るのではないだろうか。今、耳に届いた黄帝の声も、蜃が送り出した蜃気楼を通して、この世界に届いているのでは。
 ならば、きっと、黄帝の元には、もう一人の蜃がいるのだろう。
「この少年……あなたによく似ておいでです。多分、私など足元にも及ばないほどに……。そんな特別な少年を――まだわずか十六、七年しか生きていない未熟な弟を、本当に殺してよいものかどうか、あなたの真意を量りかねましたので、父上」
 その言葉を返したのは、蜃であった。
 そして、舜は戸惑った。
「……父上?」
 確かに蜃はそう言ったのだ。黄帝のことを、父上、と。そして、その前には、舜のことを、弟、と。
 二人の会話は、舜の戸惑いを無視する形で、続いていた。
「私の真意、ですか」
 黄帝が言った。
「はい。――いえ……。本当は、私自身、迷うております……」
 ゆうるりとした口調で、蜃は言った。
「人の死に、ただ感情的になっている舜くんの言葉に、ですか?」
「……。私は……ずっと、あなたのお側で暮らしたいと思っておりました。――ですが、幻術師である母の血を強く受け継いでしまった私には、あなたの後継者となるほどの力はなく……。お側で暮らすことを許していただくことは出来ませんでした。そんな私に、あなたはこの楼を預けてくださいました。今の私には、この楼だけが全てです。あなたのお心が変わらない限り、私はこの楼の保管者として、人々の不老長生の望みを叶えて行くつもりでおりました。ですが……。楼は、ずっとこのままで良いのでしょうか? 私がこの楼を守ることは、本当に必要なことなのでしょうか?」
 真摯な眼差しで、蜃は訊いた。
「いつかは、その答えを出してくれる者も現れるでしょう。その日まで、この楼の保管者でいることが、君の役目なのです。もちろん、君自身が答えを出しても構いません。この世界を君自身と共に滅ぼしてしまうなり、舜くんを殺して、この世界を守り続けるなり」
 二人の息子を前にして、本気でそんなことを言っているのであろうか、彼は。――いや、考えるだけ無駄であろう。その青年の心が解るくらいなら、とっくに答えは出ているはずなのだ。
「私は……」
「迷っているのなら、まだ答えを出す時ではないのでしょう。――君はどうですか、舜くん?」
 黄帝の矛先が、舜へと向いた。
「オレ……オレは、こんな世界は要らないと思う。死ぬ時に、あんなに幸せな顔をするなんて、間違ってると思う。でも……でも、判らない。オレ、足が動かなかったんだ……。莉芬を助けようと思ったのに……足が……。確かに、莉芬は幸せそうだった。永遠の生命を手に入れる前に死んでいたのなら、莉芬はあんなに幸せそうな顔をしなかったと思う。この世を――たった数十年の生命を呪いながら死んで逝ったかも知れない。永遠の生命を手に入れるために、酷いことだってしたかも知れない。でも……でも、だからといって、こんなやり方は間違ってる。それなのに、オレ……どうしても足が動かなかったんだ……」
 いつの世も、人間の最大の望みであり続けた、不老長生――。
 永遠に近い生命を持つ者なら、この楼がどれほど残酷な世界であるかなど、容易に知り得る。
 だが、わずか数十年の限られた生命しか持たない人間には、ここは楽園としか映らないのだ。
 そして、この楽園で、永遠の生命を手に入れた時、自分がどれほど愚かなことを望んでいたのかに、やっと気がつく。
 もちろん、気づいたからといって、元の人間に戻れる訳ではない。簡単に生命を取り替えられる世界であってはならないのだ、ここは。その愚かさを見せつけるように、気が遠くなるほどの生命を費やし、それからやっと、限りある生命との交換が叶う。その順番が巡って来る。
 そして、死ねる、というだけで、至福にも似た喜びを感じる。
 それは決して、正しいことであるはずが、ない。
 それでも――。



しおりを挟む

処理中です...