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二夜 蜃(シェン)の楼(たかどの)

二夜 蜃の楼 13

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 地上三メートルほどの空間に、いびつなガラスをはめ込んだように――或いは陽炎かげろうが立ち昇ったかのように、光の屈折率が変わったのだ。
 もちろん、すでに死んでいる舜には判らないことであったが、その変化は、死者の身であっても、感じていた。
 空間の歪みが、徐々に鮮明な形を取り始め、一人の青年を形造る。
 美しい青年であった。
 二五、六歳であろうか。長い黒髪を後ろで一つに結い上げている。そのしなやかな黒髪は、一糸も乱れず、真っすぐに背へと落ちていた。
 そして何より、彼は、地上三メートルのその位置に、羽根もない身で浮いていたのだ。
 ただ静かな眼差しで、こと切れた舜の姿を見下ろしている。その面貌は玲瓏で、また、幻のようにひどく淡く、切れ長の涼しげな黒瞳も、蒼白いとさえ言える冷たい肌も、夜の神のような神秘を備えていた。
 薄い翡翠色の衣が目に優しく、結い上げた箇所から落ちる黒髪がうなじに映え、どこかで、その青年が、この楼を創り上げた伝説のシェンではないか、という気さえ、していた。
「……香木の杭にでもしておくべきだったかな。その程度の力で、この驪山陵に生きたまま入ろうなど……。あの御方も酷なことを――」
 舜を見つめる青年の言葉が、不意に止まった。
 切れ長の双眸は、阿房宮へと続く閣道の先を見つめている。
 そして、再び空間がゆがみ、その青年の姿も、ひずみの中へと消え失せた。
 閣道の先には、デューイがいた。
 驪山陵の入り口に倒れる舜を見つけ、驚愕の面で駆け寄って来る。
「舜! どうしたんだ、舜? この矢は――。地下宮殿の仕掛け矢か……」
 やはり彼は、その仕掛けのことを知っていたようである。舜の心臓を貫く矢を見て、すぐに事の次第を察知する。
 だが、さっきの美しい青年は、たかだか地下に移された財宝を守るためにその矢を仕掛け、舜の生死を確かめに出て来た、というのだろうか。しかも、彼は、舜の正体を知っているようなことを言ってはいなかったか。
――香木の杭にでもしておくべきだったかな、と……。
 それだけではない。まるでその地下宮殿が、冥府の入り口であるかのようなことも言っていた。
――この驪山陵に生きたまま入ろうなど、と……。
 もちろんそれは、舜にもデューイにも聞こえていないことであったが。
 デューイの手が、舜の心臓を貫いている矢を、握り締める。
 矢羽根を折り、背まで貫くその矢がらを、突き刺さった方向――胸から背の方へと抜き始める。
 矢は、刺さった方向へ向けてしか、抜くことが出来ないのだ。
 血に濡れた矢が、ぐったりとした舜の体から、筋肉の妨害も受けずに、抜け始める。
 見ているだけで痛そうだが、舜はすでに死んでいるのだから、その痛みも感じない。
 矢によって押さえられていた出血が、矢が抜けると同時に、衣服を濡らす。
 血独特の、渇きをもたらす濃い匂いが、辺りの空気を染め変えた。
 デューイの琥珀色の双眸が、その匂いに目醒めるように、カッ、と朱赤に閃いた。
 唇からは、鋭い乱杭歯が突き出している。
 グワ、っと乱杭歯を剥き出しにして、デューイは、舜の首筋に咬みついた。――いや、咬みつこうとした刹那であった。
 舜の体が、床の上から、ひらり、と華麗に翻った。
 美しき者の定めであるかのように、風さえ立てずに、鮮やかな姿で、閣道に立つ。
「――ったく、危ない奴だな……。生き返るのがもう少し遅かったら、完全に咬まれてたぞ」
 と、唇を曲げて、デューイを睨む。その口調は、本当に危なかったのかどうかさえ疑わしいほどに、緊張感が微塵もない。
 あの惚けた青年の息子であるのだから、結構、色々な影響を受けているのかも知れない。
 とにかく、矢は避けられなかったものの、デューイの奇襲を避けることだけは適ったのである。
 だが、何故――。彼の能力は、普通の人間並に落ちているのではなかったか。――そう。確かに能力は低下している。そして、舜の能力が低下したように、デューイの能力もまた、普通の人間並に低下していたのだ。だからこそ、山の中で避けられたように、ここでも避けることが適ったのだ。
 そして、生き返ったことからしても、夜の一族である本来の体質は変化していないのだろう。
 彼は〃死に切れない一族〃の民なのだ。
 矢が香木で作られていなかっただけでも、幸運としなければならないだろう。


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