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二夜 蜃(シェン)の楼(たかどの)

二夜 蜃の楼 9

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「あの方は随分若く見えるけど、君の父親だから、三十代の後半くらいかな」
「……幸せな奴」
「へ?」
「オレは、母方からも、あいつの血を引いてるんだぜ。だから、あいつの体質を誰よりも濃く受け継いでるんだ。迷惑なことにな」
「あの……母方から、って――」
「オレの母親は、あいつの娘の息子の三番目か二番目の娘の――って、系図を辿った子孫で、母方の方から見れば、あいつはオレの遠い先祖になるんだ」
 言葉で聞いただけでも、気が遠くなりそうな系図である。
「あー、えーと、つまり……」
「一族の中じゃあ、オレが一番、あいつに近い存在らしいからさ。そのせいで無理やり、あんな山奥に閉じ込められて、後継者教育までされてるんだ」
 そんな話をしている間に、二人は奇妙な形の白い巨石の並ぶ小道を抜け、人々が集う花の園を前にしていた。
 花を摘んでいた少女たちが顔を上げ、悪戯を仕掛けていた少年たちが振り返り、酒をみ交わしていた男たちがしゃくを止め、装飾品や織物の美しさを競い合っていた女たちが話をやめ、腰の曲がった年寄りたちが視線を持ち上げ、遊びに夢中になっていた子供たちがはしゃぐのをやめ、皆、二人の方へと視線を向ける。
 だが、それは決して、悪意のこもった陰湿な行為では、なかった。もちろん、そういう風に一斉に視線を浴びせられるのはいい気分ではないが、全く無視されたり、訝しげにチラチラと盗み見されたり、敵意を剥き出しに睨みつけられたりするよりは、マシである。少し困ったような気分にはなるが、異端者を見て、当たり前の興味の視線を注がれることは、ある意味では正常な人間のすることであったため、理解できるものであった。
 少なくともその人々は、舜やデューイを追い払うような積もりはなく、迎えてくれる積もりらしいのだ。もちろんそれは、この世界を初めて見た時から、察していたことではあったのだが。
 二人の前に立ったのは、一人の愛らしい少女であった。袖広の優美な衣装を纏い、艶やかな黒髪を、腰まで長く伸ばしている。十四、五歳であろうか。妙に血の匂いを感じさせない少女であった。
 そしてもう一人、その少女の延長線上に、同い年くらいの少年が、やはり迎える形で立っていた。きれいな少年で、その少女と一対になっているのではないか、と思えるほどに、同じような雰囲気を纏っている。


「ようこそ、旅のお方。湯をお持ちいたしましょうか? それともお食事を?」
 黒曜石のような大きな瞳を持ち上げ、少女は言った。
 少年も、周りの人々も、にこにこと二人を見上げている。ついでに、デューイもにこにことしている。人に影響を受け易い青年なのである、彼は。
 だが、舜は――。
「この宮殿を造ったのは誰なんだ?―― いや、この世界を」
 と、冷ややかに訊いた。黄帝に陥れられた、という恨みを込めての無愛想さである。
「この世界……?」
 少女の瞳が、戸惑った。
「ああ。知っているんだろう? 術師か魔物か、インチキ方士か――。この世界を支配している人間だ」
「支配……。しんの皇帝なら、秦王政様ですが……」
「そいつはどこにいるんだ?」
「南の阿房宮あぼうきゅうの方に――」
「行くぞ、デューイ」
 舜は、傍らに立つデューイを促し、さっさと少女の前から翻った。
 デューイは何か言いたげにしていたが、舜は構わず足を進める。
「舜――。ちょっと待ってくれ。ここは――」
「この世界は、オレたちに取って居心地が良すぎる。さっきの少女や少年、周りの人間にしても、喉の渇きを煽る血の匂いを全く持っていない」
 ここにいると、血を啜りたい、という欲望さえ、芽生えないのだ。降り注ぐ陽差しも肌を焼かず、悪寒の一つも走らなければ、苦痛一つ覚えない。夜の一族が、ずっと憧れ続けて来た世界――光の中でも苦もなく過ごせ、喉の渇きも覚えず、人間と同じように暮らしていける――そんな夢のような世界が実現しているのだ、ここでは。
「その話ではなくて、さっきの少女が言っていた秦政王のことだ。その人物は確か、秦の……秦王朝の始皇帝ではないのか?」
「え?」
「ぼくは祖母がアジアの人だったから、小さい頃からアジア――特に中国に興味があって、色々と勉強していたんだ。阿房宮というのも聞き覚えがある。自ら皇帝という称号を作り上げ、始皇帝を名乗った秦政王が、人間的な存在である君主のレベル――それまでの王という称号のレベルを越えて、天帝となろうとして、天帝が棲むとされる紫微宮しびきゅうを阿房宮になぞらえ、天上界をも含めた全宇宙の支配者になろうと――」
 デューイの話はこうであった。


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