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二夜 蜃(シェン)の楼(たかどの)

二夜 蜃の楼 8

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「不思議な場所だな……。太陽の光があるのに、肌が痛くならない。ただれもしないし、寒気も感じない」
「だから戻った方がいいんだよ。吸血鬼の住める光の国なんて、ロクなところじゃない」
 危険を感じる、という訳ではないのだが、危険を感じないからこそ、余計に厄介だとは言えないだろうか。
 薄気味悪い、人を拒む形を取っている場所なら、警戒することは容易く出来る。
 だが、そこは、宮殿、という、人を受け入れる形を取っているのだ。訪れる者を、拒むことなく受け入れる形を――。足を踏み入れてから気づく危険の方が、前者の危険よりも、タチが悪い。
「戻るぞ」
 舜はそう言って、今来た道を振り返った。
 だが――。
「……こんなことだろうと思ったよ」
 そこにはもう、二人が歩いて来た鬱蒼とした山道は、跡形もなく消えていた。築山が、視界を遮るように盛り上がり、竹林が遠くを飾っている。
 恐らく、山の中で道に迷い始めた時から、二人はこの異質の世界へと導かれていたのだ。
「どうするんだ?」
 デューイが訊いた。
「決まってるだろ。この世界を創った奴を探すんだよ。でなきゃ、一生、迷子のままだ」
 二人は、大庭園の向こうに聳える、壮麗な宮殿へと足を向けた。
「黄帝がすんなり山から出してくれた時から、何か裏があると思ってたんだ。あいつ、絶対、この結界のことを知っていたに違いないんだ」
 ぶつくさ文句を言いながら、足を進める。
「黄帝様が知っていらしたのなら安心だろう? 君は黄帝様の息子だし、自分の息子を危険が及ぶような場所へ黙って行かせるようなことをなさるはずが――」
「なさるんだよ、あのおやじは。オレが死にかけて、あいつに助けを求めるのを待ってるんだ。『もう山を下りたいとは言いませんから、どうか助けてください』ってな」
「まさか」
 どうやらデューイは、舜の言うことなど頭から信用していないらしい。彼にとっては、黄帝は神のような至上絶対の存在であり、そんなことをなさるような極悪非道の冷血漢だとも、氷のように冷たい人間だとも、夢にも思っていないのだ。
 あの惚けた口調と、月の神のような妙(たえ)なる美貌に、コロっと騙されているのである、と舜は力強く主張したが、それでもデューイは信じなかった。
 一応、客人の立場であるデューイには、黄帝も優しく接しているため、信じるに足る要素に欠けているのだ。もちろん、舜とて黄帝に暴力を受けた覚えはないが、それ以上に頭に来る厭味は、日に何度となく浴びている。
 暴力、という虚勢を張る人間が使うものを用いなくても、人を従わせる力を持っているのである、あの青年は。
「いいか。あいつは、女だけじゃなく、男も喰うんだ。あんただって、いつケツを掘られるか判らないんだからな」
 その言葉に、デューイの頬が、ぽっ、と染まった。
 どうやら彼は、黄帝になら、ケツを掘られてもいいらしい。
 舜は深々と溜め息をついた。
 この世界に入ってから、喉の渇きや悪寒は感じなくなっているものの、頭痛だけは酷くなっている、という状況である。
「あの方のことは、ちゃんと『お父様』と呼んだ方がいいんじゃないのか。それに、自分のことも『ぼく』と――。黄帝様も、いつも乱暴な言葉を使ってはいけない、とおっしゃっているし」
 いつも黄帝が言う台詞を、今日は、その代行のように、デューイが言った。
「あいつは長生きし過ぎて自分の人格を喪失してるから、オレの子供らしい可愛い言葉遣いも理解できないようになってるんだよ。オレはまだ子供なんだから、枠に閉じこもる必要なんかないんだ」
 当人がいないと言いたい放題である。それに、最後の台詞は、どこから聞いても、何かのノウハウ本の受け売りに聞こえる。
「それは思春期くらいの子供の話だと……。アジア人は幼く見えるけど、君はもうアメリカの法律では大人として扱われることもある年齢だし――」
「あいつがオレを大人扱いしてないんだから、オレは子供のままでいいんだよ。年寄りの方針には従ってやらないとな」
 言っていることがメチャクチャである。


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