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二夜 蜃(シェン)の楼(たかどの)
二夜 蜃の楼 1
しおりを挟むここも本当に人の地なのであろうか。
奇岩、怪峰、深淵……幽境の岩々は暗い陰に覆われ、樹齢千年を軽く越える古木は、岩の如き堅さで聳えている。遠くから見れば、いくつもの切り立った石刻は、悪魔の棲む連山のように、異様な光景として映ったかも知れない。
ここは、中国山東省の山の一つ、之罘山(烟台)の山中であった。――いや、そのはずである。
どこを見渡しても岩が切り立ち、暗い樹木が生い茂っているため、その辺りは定かではない。
俗に言う、水墨画の世界である。
「あー、気持ち良い。やっぱ、こういうところに来ると落ち着くよナ。ここまで来る交通が不便だけど」
普通の人々が、降り注ぐ陽差しを浴びる時と同じ口調で、この薄気味悪い山の中、舜は大きく息を吸い込んだ。
こんな気が滅入ってしまいそうな山奥の、そのまた奥で、そんな台詞が吐けてしまうのだから、この少年、ただ者ではない。
まだ十六、七歳であろうか。この幽境に相応しい、神秘的な人外の麗容を備えている。
しっとりと濡れた鴉の羽根のような黒髪も、射干玉の如き黒瞳も、小さく整った輪郭の中、際立って玲瓏に映えている。普通の人間とは、どこか雰囲気が違うのだ。その美しさでも、妖しさでも――。当人は母親似であると信じているが、きっと、父親にも似ていたであろう。もちろん、父親のことがとてつもなく嫌いな舜に取っては、決して認めたくはないことではあっただろうが。
夏の日の一日――。
彼は、山登りとも思えない軽装で、道なき道を進んでいた。
その表情は、喜々としている。
実は、この少年、太陽の光の届かない、こういう薄暗い場所が好きなのである。だからこそ、こんな鬱蒼とした山中にいてさえ、これほど清々しい顔をしているのだ。湿った岩土も、陰鬱に茂る重々しい樹木も、太陽の光とは正反対に、彼を労ってくれるものなのである。
そして、それは、彼の傍らを歩く青年にとっても、同じであった。
琥珀色の瞳をしたその青年、名前を、デューイ、という。
軽くウェーブのかかった栗色の髪を肩まで伸ばし、アジアの血が四分の一混じっているという彫りの深い面貌を、人の知る範囲の美で、彩っている。
一応、カメラマンを目指していた、というが、今はその夢を中断している。といって、彼が挫折した、という訳ではない。まだ二五、六歳の、若さに満ち溢れた若者である。
それなら何故、過去形になってしまったのか、ということが疑問になるだろうが、それは、街で暮らせない身になってしまったから、としか説明のしようがない。
そして、今はそれくらいの説明で充分だろう。――いや、彼の名誉のために、一つだけ付け加えておこう。彼は決して犯罪に関わった、などという理由で、山に逃げ込んでいる訳ではない。それだけを理解していただければ、充分である。
「待……待ってくれ……。少し休憩しないか?」
苦しげに肩で息をつきながら、東洋と西洋を入り混ぜた容姿を持つ青年、デューイは、前を歩く舜に訴えた。
午後三時――。夜ならば疲労を感じずに歩けるのだが、いくら暗い山の中とはいえ、この時間は、体力に限界が付きまとう。――にも拘らず、
「さっき休んだだろ」
素っ気ない口調で、舜は言った。やせ我慢も少しだけ、入っている。
だが、目的地に辿り着くためには、早く今の状況から脱出しなくてはならないのだ。
早い話、二人は山の中で道に迷ってしまっているのである。もう三日にもなるであろうか。
暗く鬱蒼とした山中は、どこを歩いても同じような景色ばかりで、視界が開ける気配は、全く、なかった。
「この山はおかしい……。オレが道に迷うはずがないんだ」
独り言のようにそう呟き、舜は端麗な面を少し歪めた。
この少年、並の人間とは比較にならないほどに、ズバ抜けた能力を有しているのである。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感はもちろん、第六感も含めて、『一族』屈指の能力を秘めている。
それが今は、北も南も判らない状況に追い込まれているのだ。この山に入ってから、太陽も月も星も、一度として見えたためしはなく、高い木の上に登ってみても、いつも白い靄が厚く立ち込め、一寸先も見えない日ばかりが続いている。
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