254 / 350
Karte.11 黒魔術の可不可―悪魔
黒魔術の可不可―悪魔 20
しおりを挟む夜の十時を過ぎた頃――。
「春名――」
霧谷笙子は、マンションのエントランスを出て、闇に消えて行くその人物に、思わず声をかけそうになった。
暗い夜のこととはいえ、マンションの明かりも灯る中、全くの別人を春名と見間違えてしまうなど――。しかも、今、笙子に背中を見せて通りの向こうへと消えて行こうとしている人物は、男ではなく、女。常夜灯のわずかな明かりの中とはいえ、今ならそれも難なく判った。それなのに、何故、その女が春名に見えてしまったのだろうか。
――欲求不満?
だが――。
言い訳のようになってしまうが、ほんの一瞬、その人物を見た時、春名に似ているような気がしたのだ。もちろんそれは刹那のことで、笙子もすぐに間違いに気付いたのだが。
今見ても、それほど似ているとは思えない。性別だけでなく、身長も、年齢も……。
――これは本当に欲求不満かも。
心の中でそう呟き、笙子はマンションのエントランスへと足を進めた。
笙子は、クリニックを開業するセラピストである。美人セラピスト、と紹介してもいい。――いや、もちろん自分ではそんな紹介の仕方はしないが。
今日もこの時間まで有閑マダム達の愚痴を――悩みを聞き、疲れ果てて帰って来たところである。だから、見間違えてしまったのかも知れない。日々の仕事の疲れのあまり……。
「仁くんの作ったお味噌汁でも残ってたら、飲ませてもらおう」
エレベーターがフロアへ着くまでの間にそう考え、笙子は片手で肩を揉んだ。
忙しいのはいつものことだが、土曜日だというのに午前中の予約だけでは終わらず、某政治家夫人に呼び出され、今まで話相手をさせられていたのだ。豪華な食事とワインも付いていたが、肩も凝るというものである。今はただ、あたたかいお味噌汁が飲みたい。
そんな訳で、自分の部屋に戻る前に、春名の部屋のチャイムを鳴らしたのだが……。
「仁くんは出掛けていていないぞ」
部屋から出て来た春名は、そう言った。
同じフロアの向かいの部屋に棲む青年精神科医は、その秘書の少年に、家事の一切を頼っているのだ。そして、笙子もそのおこぼれにあずかっているのだが……。
「お味噌汁も?」
「それはある」
「自分で温めるから、上がるわよ」
勝手知ったる他人の家――。笙子はさっさと上がり込み、キッチンへと直行した。するとそこには、『SAVON NOIR』の見知ったボトル――。
「あら、これって、引越しのご挨拶でいただいたものよね」
そこまで言って、笙子はマンションのエントランスから出て来た婦人が誰であったのかに、やっと思い当たったのだった。
あの、春名と間違えそうになった婦人は、つい数ヶ月前に越して来たばかりのこのフロアの住人、斉藤鶴江だった。
だが、あんな感じの婦人だっただろうか。
年は五十代で、もっと肥えて、いかにもよく喋りそうな顔つきの婦人だった。それこそ、笙子のクリニックにも多くいるような――。
「この『SAVON NOIR』で思い出したんだけど、さっきねェ、このマンションのエントランスで――」
笙子は、全く似ていない別人を、春名と間違えそうになってしまったことを話して聞かせた。
もちろん、味噌汁を火にかけて、温め直すことも忘れてはいない。
「――ちょっと待て。相手は女で、しかもあの占星術師だろ? どこが俺に似てるんだ?」
不満そうな春名の問い返しも、当然のことだったかも知れない。
「そうなのよ。よく見たら全然似てないのに、エントランスの逆光でマンションから出て来るのを見た時、何だか似てるような気がしたのよ。――私も欲求不満が溜まってるのね、きっと」
もちろん、春名へ向けての皮肉である。
温めなおした味噌汁をお椀に入れて、ダイニングテーブルに持って行くと、笙子はその欲求不満を解消するように、春名の唇に口づけた。
もちろん、春名も拒まない。今日は、あの小姑のように煩い仁も、出掛けていていないのだから。
味噌汁の椀をテーブルに置き、深く唇を重ね合わせる。
こんな時間は、随分久しぶりのような気がしていた。
あの日から――。
春名の口から、結婚は考えていない、と言われた、あの日から――。
0
お気に入りに追加
36
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。
でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。
けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。
同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。
そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる