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Karte.9 民俗学の可不可―奇習
民俗学の可不可―奇習 17
しおりを挟む農業用用水池が村の行き止まり、という訳ではなく、その向こうにも山裾に沿って家があり、春名は道があるところまで戻ってから、数軒先の大きな構えの屋敷へと足を向けた。
もしかして、サラサから聞いた、鷲見巳之丞の屋敷ではないか、と思ったのだ。
だが――。
一見、普通の田舎屋敷に見えたその家は、前に回ると門の脇に《沼尾医院》という木製の古い看板が掛けられていて、そこが村の診療所であることが見て取れた。
そして――。
「沼尾……」
ここは、沼尾匡の実家なのだ。
もちろん、田舎のことだから、本家や分家があって、同じ名字の家が他にあってもおかしくはないが、沼尾、という姓で、医者の家はそうないだろう。
医者を目指す者の場合、実家や親が医師である場合が多く、春名や沼尾の場合も例外ではなかったのだ。
どうしようか迷ったが、偶然ここに辿り着いたのも、行け、という意味なのだと理解して――仁が聞いていたら、そうは言わなかったかも知れないが。春名は、患者に開かれている門をくぐった。
医院と家が一緒になっているのは、通勤の面では楽だろうが、二十四時間患者が来るかも知れない、という意味では、厄介である。診療時間を決めていても、病人を連れて来られたら、診ない訳にはいかないのだから。
だが、今日、応対に出て来た初老のご婦人が嫌な顔をしたのは、きっと、そんなことのせいではなく、身も知らぬ不審な人間が浴衣姿で立っていたからに違いない。
「東京の医師で春名と言います。こっちの方に来る予定があったので、同僚の医師から沼尾先生に伝言を頼まれたのですが」
東京の、と前置きを付けたことで、春名の言う『沼尾先生』がこの医院の院長のことではなく、息子の匡のことであると察したのか、
「あの子は……息子は、もう医者をやめて……」
初老のご婦人――恐らく、沼尾匡の母親であろう人物は言った。
「ええ、存じています。今は民俗学に勤しんでおられるとか。――ご在宅ですか?」
「いえ……。もうここには」
「そうですか。――実はさっき、雨上がりのぬかるみに足を取られて転んでしまって、能年さんのお宅でお世話になったのですが。――あ、それで、この格好なんです」
春名は、自分が浴衣姿であることの説明をして、
「その時――転んだ時に、沼尾先生の財布を偶然拾ったので、さぞ探しておられたのではないかと思いまして」
「――」
初老の婦人の顔色が変わった。
「匡の……」
「財布を落としたことに気づかれないまま、東京に?」
春名が訊くと、
「あの子は……」
沼尾夫人は、唇を噛みしめるようにして、次の言葉を詰まらせた。
恐らく、涙を堪えているのだろう。
春名は黙って、沼尾夫人の口から言葉が零れるのをじっと待った。
涙を流さずに喋れるようになるまでには、長い時間が必要だった。
そして、夫人はこう言ったのだ。
「あの子は……もうここへは戻って来ません……」
「それは――」
「お願いです。そっとしておいてください。この村にはこの村の風習があるのです」
「風習?」
「失礼します」
沼尾夫人はそう言うと、屋敷の中へと入ってしまった。
――風習……。
それが、沼尾匡の失踪と、何か関係しているのだろうか。
もしかすると、医者から民族学に転向した沼尾が実家に戻ってきたのも、この村の風習を調べるためだったのかも知れない。
この村でずっと暮らしている人たちには当たり前のことでも、他の街に出て生活していた人間には、受け入れ難いこともあるのだろうから。
風習とは、得てして他所の人間から見れば、奇妙なものなのである。
それなら……。
春名は取り敢えず能年の家に戻ることにして、沼尾の屋敷を後にした。
――仁が戻ったら、美里町の図書館に行ってみよう……。
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参考文献
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
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