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Karte.8 青い鳥の可不可―迷走
青い鳥の可不可―迷走 22
しおりを挟むパンも卵も焦げてしまい、朝食を摂る時間もなくなってしまったので、結局その日は朝食抜きで家を出て、春名は病院、仁は大学に、いつものように来てしまっていた。
朝は時間がないために、あの論争もうやむやになり、それでも春名がいつもの春名だったので、仁も少しホッとして大学で車を降りたのだ。そして、病院へ行く春名の車を見送り、構内へと歩き出す。
いつもと同じ朝だった。
そのはずだったのだ。
だが、歩き出したすぐ後に、ドン、という重い衝突音が響き渡った。
それは、誰もが足を止めて振り返るほどに、非日常的な音であり、仁も例外ではなく驚いた。
振り返って道の先に視線を向けると、たった今見送った春名の車が、街路樹にぶつかって止まっていた。
「先生――っ!」
仁は、限界にまで早鐘を打つ鼓動のままに、春名の車に駆け出した。
シカゴの道路は、冬の大雪の水分と、その雪を解かすための塩化カルシウムの塩分、そして、除雪車の重量……そんな様々な要因もあって、決して良いとは言えない事情がある。治安も良くはないし、一ブロックごとに緊急通報ボタンが設置されているとはいえ、夜間は背の高い街路樹に、街灯の明かりが遮られる場所もある。
だが、今は朝――。
いくら凸凹の道路とはいえ、それが原因で事故を起こすことはほとんどない。誰かが急に、目の前に飛び出して来たのでもなければ――。
「先生! 春名先生!」
車窓を覗いて声をかけると、春名はまた、あのどこも見ていない虚ろな視線で、
「彼らが急に、車の前に……。また……」
と、小さな声で、呟いた。
どうやら怪我はしていないようだが、車のフロントは凹んでいる。もちろん、そのお陰で衝撃が吸収されて、車内の人間は助かるように出来ているのだが。
空気が抜けて萎れたエアバックも、何だか不安げな姿に見えた。
周囲に人が集まって来る。
「何かブツブツ言ってるみたい」
「イカレタ奴じゃないのか?」
「精神病院から抜け出して来たのかも……」
明らかに普通ではない春名の様子に、眉をひそめるような会話が聞こえて来た。
「大丈夫か? 救急車を呼ぼうか?」
そんな声をかけてくれる人もあったが、
「はい――。いいえ、あの、ぼくが病院へ付き添います。大丈夫です」
そう応えると、立ち止まっていた人々も歩き出し、通りすがりにチラチラと視線を向ける程度になった。
「また、彼らが視えたんだ……。俺の車の正面に……」
「ドク――」
「仁くん……。俺はきっと正気じゃない……。もう患者を診ることは出来ない……」
それは恐らく、春名が初めて口にした、挫折の言葉であったのだと思う。仁もまだ春名を知って数年だが、それ以前にも春名はきっと自分の人生において、挫折というものを味わったことなどなかっただろうから。
「先生は正気です。正気でない人間に、自分の正気を疑うことは出来ません」
たとえ幻覚が視えようと、彼らの幻聴が聞こえようと、その部分を除いた春名は全く正常であるはずなのだから。
これは、異常な言動を見せる人々の多くに言えることだが、ある部分を除いて、彼らは正常であることがずっと多い。
「疑ってるんじゃない。確かに視える幻覚と幻聴のことを言っているんだ……」
「それは――」
「本当は君には視えていない。――そうなんだろう? 俺だけに視えている幻覚なんだろう、あの二人は……?」
春名の瞳が、仁を見据えた。
責めている訳ではなく、真実を知ろうとする眼差しだった。
「――じゃあ、先生には、ぼくが視ている血が視えるんですか? ぼくが今までに視て来たものも、ぼく以外には視えない幻覚じゃないと、先生に証明できるんですか? 先生は、ぼくに何が視えていても、ぼくを普通の子供だと言ってくれたじゃないですか」
「俺の視る幻覚は、君の能力とは別のものだ――」
「どうしてぼくに視えるものだけが能力で、先生に視えるものが能力じゃないと言えるんですか?」
「彼らは――」
春名の言葉が不意に止まった。
少し唇を震わせ、次の言葉をためらうように――。
それでも、指を結んで呼吸を置くと、春名は続けて、こう言った。
「それは……彼らを殺したのが、俺自身だからだ……」
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参考文献
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
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