146 / 350
Karte.7 吸血鬼の可不可-血
吸血鬼の可不可-血 29
しおりを挟む忘れ薬を飲まされ、全てを忘れたジークフリートに裏切られた、と思ったブリュンヒルデは、ジークフリートの弱点をハーゲンに教え、ジークフリートを殺させる。そして、ライン川畔でジークフリートの遺骸を焼き、自らもその炎の中に身を投じる。
炎は世界に燃え広がり、ヴァルハラの館さえも焼き尽くし、やがてライン川が増水し、全てを飲み込んで幕が降りる……。
ふぅ、と大きく息をつき、仁は、春名に言われた通りにDVDを片付け、聞き分けのいい子供の代表のように、ベッドに入った。
だが、興奮が冷めないのか、眠気は全く、訪れなかった。
《指輪》はとにかく巨大な作品なのだ。
登場人物は誰も彼も槍を持っていて、精神分析学者は、それを男性器の象徴だと言うが、春名はそんなことを言ったことがない。もちろん、何故言わないのか、その理由は、仁は知らない。
取り敢えず、《指輪》を聴くにはそんなことは関係のないことで、知らなくても不都合はない。
《指輪》は、愛を断念したものだけが、ラインの乙女に護られる黄金を得ることが出来、世界を支配する指輪を作ることが出来る……というその序夜から始まり、ストーリーも人間関係も複雑で、神々も出て来るし、巨人も出る、英雄も出る……と、上演するのも大変なら、鑑る方も大変で、その巨大さから、やはりバイトロが向いている。もちろん、他の歌劇場で上演しても差し支えはないし、巨大な作品であるにも拘わらず、上演回数も少なくない。
だが、気力と体力、覚悟がいることだけは確かである。
その全てを使い果たし、眠たいはずなのに、何故か眼が冴え、仁は眠ることが出来なかった。――いや、胸騒ぎ、とも言えるものが胸の奥に渦巻いていて、眠ることが出来ないのだ。
それは、母親が事故に遭う前に感じたものと同じ不安、であっただろうか。
一旦、そう思い始めると、今度は抑えようのない不安が膨れ上がって来る。
もちろん、このコンドミニアムはセキュリティもしっかりしていて、入り口にはガード・マンも常駐しているのだから、たとえ吸血鬼であろうと、空でも飛べない限り、この部屋に入って来ることなど出来はしない。危険なことなどあり得ず、たとえ春名がいなくとも、不安になる理由などないはずなのだ。
そこまで考え、仁は、ハッ、と目を見開いた。
「ドクター.春名!」
春名は外へ出掛けているのだ。仁は安全でも、春名の身に何かが起こる、ということは充分、考えられる。
しかし、春名の行き先など、仁は知らない。
「ぼくが……ぼくがもっと早く気づいていれば……」
ワーグナーの《指輪》に夢中になり、そんな胸騒ぎなど、少しも気に留めてはいなかったのだ。こんな時間に春名が出掛ける、というのだから、注意して当然だったのに、それに心を傾けることもしなかった。もっと注意していれば、春名が出掛ける前に、気づいたかも知れないというのに――。何かを感じることが出来ていたかも知れないのに――。
後悔と自責が膨れ上がる中、仁はベッドを抜け出し、春名の部屋へと駆け込んだ。
春名は女の人のところに出掛けたはずなのだから、アドレス帳を見れば、その女の人の電話番号も判るはずだった。――そう。住所も名前も覚えている。ビッグ・ジョンのコンドミニアムに住む、サラ、という女性。
だが……。
仁がアドレス帳を見つけ、その女性のところへ電話を入れた時、返って来たのは、この言葉だった。
春名と逢う約束はしていないし、春名も来てはいない、と……。
0
参考文献
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
お気に入りに追加
36
あなたにおすすめの小説


ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。


フリー台詞・台本集
小夜時雨
ライト文芸
フリーの台詞や台本を置いています。ご自由にお使いください。
人称を変えたり、語尾を変えるなどOKです。
題名の横に、構成人数や男女といった表示がありますが、一人二役でも、男二人、女二人、など好きなように組み合わせてもらっても構いません。
また、許可を取らなくても構いませんが、動画にしたり、配信した場合は聴きに行ってみたいので、教えてもらえるとすごく嬉しいです!また、使用する際はリンクを貼ってください。
※二次配布や自作発言は禁止ですのでお願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる