上 下
145 / 350
Karte.7 吸血鬼の可不可-血

吸血鬼の可不可-血 28

しおりを挟む

 音だけでなく、映像付きの《Der Ring des Nibelungen(ニーベルンクの指輪)》は、コンドミニアムの一室を、バイトロの舞台に変えていた。
 詞が書き始められてから二六年後に完成したというワーグナーの大作は、序夜の《ラインの黄金》を入れて、《ワルキューレ》《ジークフリート》《神々のたそがれ》と、上演だけで四夜もかかる。
 その一〇〇を越えるライト・モチーフを細々と聴き取りながら、仁は手に汗握って、最後の《神々のたそがれ》に見入っていた。
 シカゴにも伝統あるリリック・オペラがあるが、上演に四夜――一日置きに上演すれば一週間以上もかかる《指輪》を、そこで上演することは、まずない。
 ニューヨークのメトロポリタン・オペラで上演されたとしても、それを鑑るためには、十日間も滞在しなくてはならないのだ。
 ドイツまで鑑に行くのも、もちろん無理で、その中、DVDは、最も手軽で、しかも特等席でオペラを楽しめる最高の贈り物だった。何より、外に出られない、という今は、恰好の時間潰しにもなる。
 そして、それは、春名にも安心できることだった。
「ジークフリートは、もう忘れ薬を飲まされたのかい?」
 と、風呂上がりの姿で、一生懸命にワーグナーに浸る仁の背中に、声をかける。CDがあるから、もう話の筋は解っているのだ。
 仁は、コクリ、とうなずいた。
 ワーグナーは、一度その恍惚たる時間を体験すれば、麻薬のように中毒になる、という人間もいるほどで、狂気の王として謎の死を遂げたバイエルン王ルートヴィッヒや、人類史上最悪の大虐殺を遂行したヒトラーも、ワーグナーに心酔していたという。
 だが、春名も仁も、ワーグナーに城を捧げるほどのワグネリアンではなく、上演中であっても風呂にも入るし、問いかけられれば返事もする。もちろん、見始めれば一生懸命にもなるのだが……。
 春名は、そんな仁の姿をしばらく見つめ、寝室へと足を向けた。
 風呂にも入り、後は寝るだけ、という時間でありながら、クロゼットから着替えを取り出し、出掛ける支度を整える。
 もちろん、春名はまだ寝る時間ではなく、寝なくてはならないのは仁の方だが、それでも、出掛ける支度をする時間ではない。
 春名が最後に取り出したコートのポケットには、一枚のカードが入っていた。
《今夜十一時、ハイアット・リージェンシーで》
 それだけがカードの文面である。
 差出人は、レオ、とだけなっている。ライオネルの愛称ペットネームだろう。
 そのカードをコートに戻し、春名は寝室を後にした。
 リビングでは、まだ仁がオペラに見入っている。
「仁くん、それが終わったらすぐに寝るんだぞ」
 と、声をかけて、玄関に向かう。
「――どこに行くの、ドクター.春名?」
 春名が手に掛けるコートを見て、疑問に思ったのか、仁が顔を上げて、問いかける。
「聞きたいかい?」
 春名は、悪戯を仕掛けるような口調で、問い返した。
「?」
「仁くんがもう少し大人になったら話し易いんだが……。それに、いつもは仁くんが寝てから出掛けるし……。冬休みに入ってから、仁くんはすっかり夜型になったからなァ」
 その言葉に意味を察したのだろう。仁の顔は真っ赤になった。
「ぼく、別に聞きたくないっ」
 と、心臓の音が聞こえて来そうな顔で、DVDの方へと視線を戻す。
 もう少しからかいたくなるような愛らしさだが、今はそうしてもいられない。
 春名は、フッ、と瞳を細めて、部屋を出た。
 メール・ボックスに入っていたカードが、何を意味してのものなのかは、解らない。
 だが、仁が受け取らなくて良かった、ということだけは確かである。いつもなら、メールを取りに行くのは仁の仕事で、十字架の一件がなければ、このカードを手にしていたのも、仁のはずだったのだから。
 あの一件以来、仁はメール・ボックスに行くことさえも禁止されていて――春名が禁止していて、その結果、春名が運良くカードを手にすることになったのだ。――いや、運良く、だろうか。もしかするとあの男は、仁の代わりに春名がメールを取りに来ていることも知っていて、このカードを入れたのではないだろうか。カードに指定された時間からしても、仁を呼び出すためのものとは思えない。そんな時間に仁が出掛けようとすれば、必ず春名の目に止まるのだから。
 恐らく彼は、春名を呼び出すために、このカードを入れたのだろう。
 だが、一体、何のために――。そう考えると何も解らない。
 警察に通報された時の危険を避けるためか、カードには、ホテルの部屋番号さえ記されてはいない。ホテルの中での話し合いになるのか、酷寒の外での話し合いになるのか、それとも、殺し合いになるのか……全てはホテルに着いてから、という訳である。
「偽の犯人が捕まったせいで、美少年を殺せなくなって、ターゲットを美青年に切り替えた、とも思えないが……」
 そんな冗談も、決して冗談にはならないほどに、シカゴの夜は、凍りつきそうな寒さに凍えていた……。


しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。 でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。 けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。 同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。 そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...