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Karte.7 吸血鬼の可不可-血
吸血鬼の可不可-血 28
しおりを挟む音だけでなく、映像付きの《Der Ring des Nibelungen(ニーベルンクの指輪)》は、コンドミニアムの一室を、バイトロの舞台に変えていた。
詞が書き始められてから二六年後に完成したというワーグナーの大作は、序夜の《ラインの黄金》を入れて、《ワルキューレ》《ジークフリート》《神々のたそがれ》と、上演だけで四夜もかかる。
その一〇〇を越えるライト・モチーフを細々と聴き取りながら、仁は手に汗握って、最後の《神々のたそがれ》に見入っていた。
シカゴにも伝統あるリリック・オペラがあるが、上演に四夜――一日置きに上演すれば一週間以上もかかる《指輪》を、そこで上演することは、まずない。
ニューヨークのメトロポリタン・オペラで上演されたとしても、それを鑑るためには、十日間も滞在しなくてはならないのだ。
ドイツまで鑑に行くのも、もちろん無理で、その中、DVDは、最も手軽で、しかも特等席でオペラを楽しめる最高の贈り物だった。何より、外に出られない、という今は、恰好の時間潰しにもなる。
そして、それは、春名にも安心できることだった。
「ジークフリートは、もう忘れ薬を飲まされたのかい?」
と、風呂上がりの姿で、一生懸命にワーグナーに浸る仁の背中に、声をかける。CDがあるから、もう話の筋は解っているのだ。
仁は、コクリ、とうなずいた。
ワーグナーは、一度その恍惚たる時間を体験すれば、麻薬のように中毒になる、という人間もいるほどで、狂気の王として謎の死を遂げたバイエルン王ルートヴィッヒや、人類史上最悪の大虐殺を遂行したヒトラーも、ワーグナーに心酔していたという。
だが、春名も仁も、ワーグナーに城を捧げるほどのワグネリアンではなく、上演中であっても風呂にも入るし、問いかけられれば返事もする。もちろん、見始めれば一生懸命にもなるのだが……。
春名は、そんな仁の姿をしばらく見つめ、寝室へと足を向けた。
風呂にも入り、後は寝るだけ、という時間でありながら、クロゼットから着替えを取り出し、出掛ける支度を整える。
もちろん、春名はまだ寝る時間ではなく、寝なくてはならないのは仁の方だが、それでも、出掛ける支度をする時間ではない。
春名が最後に取り出したコートのポケットには、一枚のカードが入っていた。
《今夜十一時、ハイアット・リージェンシーで》
それだけがカードの文面である。
差出人は、レオ、とだけなっている。ライオネルの愛称だろう。
そのカードをコートに戻し、春名は寝室を後にした。
リビングでは、まだ仁がオペラに見入っている。
「仁くん、それが終わったらすぐに寝るんだぞ」
と、声をかけて、玄関に向かう。
「――どこに行くの、ドクター.春名?」
春名が手に掛けるコートを見て、疑問に思ったのか、仁が顔を上げて、問いかける。
「聞きたいかい?」
春名は、悪戯を仕掛けるような口調で、問い返した。
「?」
「仁くんがもう少し大人になったら話し易いんだが……。それに、いつもは仁くんが寝てから出掛けるし……。冬休みに入ってから、仁くんはすっかり夜型になったからなァ」
その言葉に意味を察したのだろう。仁の顔は真っ赤になった。
「ぼく、別に聞きたくないっ」
と、心臓の音が聞こえて来そうな顔で、DVDの方へと視線を戻す。
もう少しからかいたくなるような愛らしさだが、今はそうしてもいられない。
春名は、フッ、と瞳を細めて、部屋を出た。
メール・ボックスに入っていたカードが、何を意味してのものなのかは、解らない。
だが、仁が受け取らなくて良かった、ということだけは確かである。いつもなら、メールを取りに行くのは仁の仕事で、十字架の一件がなければ、このカードを手にしていたのも、仁のはずだったのだから。
あの一件以来、仁はメール・ボックスに行くことさえも禁止されていて――春名が禁止していて、その結果、春名が運良くカードを手にすることになったのだ。――いや、運良く、だろうか。もしかするとあの男は、仁の代わりに春名がメールを取りに来ていることも知っていて、このカードを入れたのではないだろうか。カードに指定された時間からしても、仁を呼び出すためのものとは思えない。そんな時間に仁が出掛けようとすれば、必ず春名の目に止まるのだから。
恐らく彼は、春名を呼び出すために、このカードを入れたのだろう。
だが、一体、何のために――。そう考えると何も解らない。
警察に通報された時の危険を避けるためか、カードには、ホテルの部屋番号さえ記されてはいない。ホテルの中での話し合いになるのか、酷寒の外での話し合いになるのか、それとも、殺し合いになるのか……全てはホテルに着いてから、という訳である。
「偽の犯人が捕まったせいで、美少年を殺せなくなって、ターゲットを美青年に切り替えた、とも思えないが……」
そんな冗談も、決して冗談にはならないほどに、シカゴの夜は、凍りつきそうな寒さに凍えていた……。
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