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Karte.6 不老の可不可-眠り
不老の可不可-眠り 13
しおりを挟む二人が出て行った部屋の中、ニコライは窓の側から翻り、左手の壁にかかる深い緑のカーテンを、静かに、開いた。窓ではなく、アーチ型に切り取られた、続き部屋への入り口である。
その部屋のベッドの上には、美しい眠り姫の姿があった。眠れる森の美女のオーロラ姫――いや、美しい姉、エリザベータ……。
ニコライはベッドの傍らへと足を向け、その流れる金髪に口づけた。
眠れる美女は、王子の口づけで眠りから醒める……。
だが、美しいエリザベータは、目醒めなかった。
「……まだ駄目なのかい、エリザベータ? ぼくは、もうとっくにあなたの年を追い越している。あなたはぼくよりも先に年老いたりしないんだ……。それでもまだ目を醒ましてくれないのかい……?」
「……」
「どうして……。あの日のことを怒っているのかい? ぼくがあなたの側を離れたから……。あの日から、あなたは口も利いてくれない。肌を重ねることも……」
「……」
「知らなかったんだ……。あなたがぼくの子供を宿していたなんて。ドクトルを呼びに行くことしか頭になくて……。戻って来て、血に染まるあなたを見た時は、気が狂いそうになった。子供だけでなく、あなたまで失っていたら、ぼくは生きてなどいられなかった……。許されない想いの代償だと。愛し合うことが罪なのだと。――君は、罪を恐れない、と言っただろう? 共に堕ちようと……。罪を犯した人間は、土に還れず、母なる大地に迎え入れられずに彷徨い続ける。朽ちもせず、老いもせず……。それをとても素敵だと言った。美しいままで、ぼくと一緒にいたいと……。それなのに、君は眠ったままで――。永遠の美しさと、ぼくの心を抱き締めたままで眠り続けて……。ぼくはいつまで待っていればいいんだ……」
「……」
「……あの小鹿が階段を駆け降りる姿を見て、あの時の君を思い出した。――そう似ているという訳じゃないんだ。彼は黒髪の日本人で。それでも、息が詰まるほどにゾッとした。もう、二度とあんな姿は見たくない……。それに、あの小鹿……」
「……」
「君にも聞こえていただろう? あの小鹿、まるで、あの日の君を知っているようなことを言って――」
そこまで言いかけた時、不意に、ピアノの音が耳に届いた。もう何度も聴いて来た旋律だった。
ニコライは、ハッ、として顔を持ち上げた。
ベッドの傍らから腰を浮かせ、その旋律の方を振り返る。隣の――続き部屋の方から聴こえて来る。
数々のバレエ音楽を残したチャイコフスキー――その中でも、エリザベータが好んでいた、眠れる森の美女……。
だが、一体、誰がピアノを弾いている、というのだろうか。
ニコライはアーチの向こうへと足を向けた。
訝しさと、相反する高鳴る胸で、そのカーテンを開け放つ。
そこには、思いがけない姿が、あった。
ピアノの前に腰を下ろし、優雅な物腰で旋律を結んでいるのは、緩やかに流れる金の髪をした、気高く美しい女性だった。鍵盤を跳ねる細い指も、その身に纏う豪華なドレスも、ニコライには全て見覚えが、あった。
チャイコフスキー国際コンクールの時に、エリザベータが纏っていたドレスである。
「エリザベータ……なのか?」
ニコライはその姿に息を詰まらせ、足を一歩、踏み出した。
ピアノを弾く美しい奏者は、消えることなくそこにいる。
幻ではない、のだ。
「エリザベータ……」
ニコライは、背を向ける奏者の後ろに立って、金色の髪を指にすくった。
懐かしい匂いが、フワリ、と漂う。
その髪に、震える心で口づける。
ピアノを弾く指が、止まった。
「……エリザベータ?」
止まった旋律に、顔を上げる。
「ニコライ……」
オーロラ姫が、目を、醒ました。艶やかな仕草で立ち上がり、ニコライの方を振り返る。
「あ……あ……。エリザベータ……」
「愛しているわ、ニコライ……」
エリザベータが優しい笑みで、ニコライの頬を包み込む。
心が彷徨うほどの白い手は、それだけで幸福をもたらした。
「エリザベータ……。愛している。ぼくもあなたを愛して……」
ニコライは、エリザベータの薔薇色の唇にキスを重ね、長い星霜の温もりを抱いた。
細い首筋、森の匂い、ドレスを解いたきめ細かい肌……。今、それが手元に還る。
それは、何と心地よい時間であっただろうか。
ニコライは、全てを忘れて、それに浸った。
クラシックな寝椅子に肌を寄せ合い、あの日のままの美しさを腕に包み。
「きれいだ、エリザベータ……。君と、こうして再び肌を重ねられる日を……。この腕に抱き締めることが出来る日を、ずっと待っていた……」
「……」
「美しい眠り姫……」
切なく寂しい指先で、白い肌を慈しみ、望んでいた肢体に想いを重ねる。
時間の動き始めた森と、空白を埋める充足の城。
樹は枯れてさえ美しく、散った枯れ葉でさえ愛される。
だが、人は老いれば醜く朽ち果てるのみ。人ばかりが醜く朽ちる……。
「愛している、エリザベータ……」
ニコライは長い時の想いを告げた。待ち続けていたその想いを、今、一つになることで埋め合わせる。
優しい愛撫で肌を濡らし、一時の安らぎに肢体を、繋ぐ。
森の樹木が囁き合うように枝葉を揺らし、城は時間を刻み続けた。
それは、今まで流れることのなかった満ち足りた心の時間であった……。
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参考文献
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
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