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Karte.6 不老の可不可-眠り
不老の可不可-眠り 11
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ベッドを降り、春名は明るい窓へと足を向けた。
とねりこの木と白樺並木に囲まれて立つ森の城――。その緑美しい森には、本当に精霊が棲んでいるような雰囲気が、あった。――いや、精霊は、いた。さらさらとした黒髪と、まだあどけなさを残す面貌をした、東洋の精霊。
『春名』のことを知っている、という少年……。
その少年は、すがるような眼差しで、春名の立つ窓を見上げている。
春名は、黙ってその瞳を見つめ返した。
木洩れ陽に透ける森に立つ少年――。彼の儚げな面貌は、光りに溶ける細い線の肢体と共に、今にも脆く消えてしまいそうな光を纏っている。
『ぼくは仁です、先生……』
――レン……。
その名前を繰り返し、春名は記憶にない少年の姿を窓越しに眺めた。――いや、ないのは、その少年に関しての記憶だけではない。春名自身の記憶さえ。
自分が本当に精神分析学者で、精神科医の春名であるのかも、シカゴでずっと暮らしていたのかも、何一つ思い出すことが出来ないでいる。
仁が春名から視線を逸らして、森の中へと消えて行く。
『本当に何も思い出さないんですか? ぼくを見て、何も……』
何も……。何も思い出せない、のだ。自分が誰なのか。どこで、どんな生活をしていたのか、何も――。
「――っ!」
割れそうに痛む頭を抱え、春名は床の上に膝を崩した。
「痛……っ。く……」
自分は誰だというのだろうか。
どこで何をしていたというのだろうか。
何故、何も思い出せないのだろうか。
「俺は……」
朝から澄み切った一日だった。
「ガスパジン? ――ガスパジン.シェレメーチェフ? シェレメーチェフ伯、どこに?」
城に戻り、仁は城の主に呼びかけた。
広い館の中では、自宅のマンションで呼びかけるような訳にも行かず、加えて、部屋を覗き回るな、とも言われている手前、廊下をうろつきながら、大声を出して回るしかない。
「――何だ?」
一つの部屋のドアが開き、中から城の主が姿を見せる。そこが彼の部屋なのかは判らないが、彼は大抵そこにいる。
「森で棘を刺して――。棘抜きを貸してもらえれば……」
仁は部屋の前へと足を進め、棘の刺さった右手を示して見せた。中指の腹に、鋭い木の棘が刺さっている。
「……。おいで」
ニコライは、仁を促して部屋の中へと翻った。
円天井の書斎を兼ねた優美な一室である。中央にグランド・ピアノが据えてあり、窓際には白樺造りのティー・テーブルが置いてある。
「そこに座って――。明るいところの方がいい」
と、窓際の席を、仁へと促す。そして、棚の上から薬箱を取り出した。
「あなたがピアノを?」
陽の差し込む場所に腰を下ろし、仁は磨き抜かれたグランド・ピアノへと視線を向けた。
「……。姉のものだ」
「姉? エリザベータという人? その人もここに――」
「さあ、手を出して」
仁の言葉を遮るように、ニコライは冷ややかな口調で言葉を向けた。
「あ、自分で――」
「右手で彼の包帯を巻いていただろう? 右利きの君が、左手で棘を抜くのか?」
「……」
仁は黙って右手を差し出した。
形のいい白い指先が重なり、刺さった棘を器用に抜き取る。
「――私が君の血を吸うとでも?」
消毒を済ませ、包帯を巻きながら、ニコライは言った。応えを求めるための問いではないのだろう。唇には嘲笑が浮かんでいる。
「さあ、終わりだ」
「スパシーヴァ……」
窓の外で、ザザっと木立がざわめいた。
とねりこの木と白樺並木に囲まれて立つ森の城――。その緑美しい森には、本当に精霊が棲んでいるような雰囲気が、あった。――いや、精霊は、いた。さらさらとした黒髪と、まだあどけなさを残す面貌をした、東洋の精霊。
『春名』のことを知っている、という少年……。
その少年は、すがるような眼差しで、春名の立つ窓を見上げている。
春名は、黙ってその瞳を見つめ返した。
木洩れ陽に透ける森に立つ少年――。彼の儚げな面貌は、光りに溶ける細い線の肢体と共に、今にも脆く消えてしまいそうな光を纏っている。
『ぼくは仁です、先生……』
――レン……。
その名前を繰り返し、春名は記憶にない少年の姿を窓越しに眺めた。――いや、ないのは、その少年に関しての記憶だけではない。春名自身の記憶さえ。
自分が本当に精神分析学者で、精神科医の春名であるのかも、シカゴでずっと暮らしていたのかも、何一つ思い出すことが出来ないでいる。
仁が春名から視線を逸らして、森の中へと消えて行く。
『本当に何も思い出さないんですか? ぼくを見て、何も……』
何も……。何も思い出せない、のだ。自分が誰なのか。どこで、どんな生活をしていたのか、何も――。
「――っ!」
割れそうに痛む頭を抱え、春名は床の上に膝を崩した。
「痛……っ。く……」
自分は誰だというのだろうか。
どこで何をしていたというのだろうか。
何故、何も思い出せないのだろうか。
「俺は……」
朝から澄み切った一日だった。
「ガスパジン? ――ガスパジン.シェレメーチェフ? シェレメーチェフ伯、どこに?」
城に戻り、仁は城の主に呼びかけた。
広い館の中では、自宅のマンションで呼びかけるような訳にも行かず、加えて、部屋を覗き回るな、とも言われている手前、廊下をうろつきながら、大声を出して回るしかない。
「――何だ?」
一つの部屋のドアが開き、中から城の主が姿を見せる。そこが彼の部屋なのかは判らないが、彼は大抵そこにいる。
「森で棘を刺して――。棘抜きを貸してもらえれば……」
仁は部屋の前へと足を進め、棘の刺さった右手を示して見せた。中指の腹に、鋭い木の棘が刺さっている。
「……。おいで」
ニコライは、仁を促して部屋の中へと翻った。
円天井の書斎を兼ねた優美な一室である。中央にグランド・ピアノが据えてあり、窓際には白樺造りのティー・テーブルが置いてある。
「そこに座って――。明るいところの方がいい」
と、窓際の席を、仁へと促す。そして、棚の上から薬箱を取り出した。
「あなたがピアノを?」
陽の差し込む場所に腰を下ろし、仁は磨き抜かれたグランド・ピアノへと視線を向けた。
「……。姉のものだ」
「姉? エリザベータという人? その人もここに――」
「さあ、手を出して」
仁の言葉を遮るように、ニコライは冷ややかな口調で言葉を向けた。
「あ、自分で――」
「右手で彼の包帯を巻いていただろう? 右利きの君が、左手で棘を抜くのか?」
「……」
仁は黙って右手を差し出した。
形のいい白い指先が重なり、刺さった棘を器用に抜き取る。
「――私が君の血を吸うとでも?」
消毒を済ませ、包帯を巻きながら、ニコライは言った。応えを求めるための問いではないのだろう。唇には嘲笑が浮かんでいる。
「さあ、終わりだ」
「スパシーヴァ……」
窓の外で、ザザっと木立がざわめいた。
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