111 / 350
Karte.6 不老の可不可-眠り
不老の可不可-眠り 9
しおりを挟む嵐が去った森の城は、時折チャイコフスキーの交響曲が流れるだけで、後は誰もいないように静かだった。人の話し声はおろか、生活の音さえ聞こえないのだ。
殺風景――。
ここへ来た時に感じた印象は、そのせいだったのかも知れない。
仁は、光の差し込む窓辺から、美しい森を静かに眺めた。
「もし、彼がこの城に一人で住んでいるのなら、大変でしょうね。ぼくと先生の食事や、雑用……。ぼくは、まだ彼以外の人に会ったことはないですけど。使用人も見かけないし――。以前は家庭医がいたと聞きましたけど、どのくらい以前なのか……。不思議な青年ですよ。――そう思いませんか、先生?」
と、ベッドの中の春名へと問いかける。
「……君は、ぼくのことを知っているらしいが、ぼくの身内――養子か何かなのか?」
枕を背に、春名は体を起こして、首を傾げた。
「ぼくは……。ぼくは、先生の身内じゃありません。養子でも、兄弟でも……」
「一緒に暮らしていた、と言っていただろう? 小さい頃から――シカゴにいた時からずっと、と」
「はい……。先生がまだシカゴ大学に籍を置いていた頃から……」
「シカゴ大学……?」
「先生はそこで神経学を専攻して、それから精神医学に移って、精神分析学者として……。ぼくは先生が研修生の時に初めて逢って、一緒に住むようになったのは、博士課程の一番大変な時期で……面倒ばかりかけて……。本当に何も思い出さないんですか? ぼくを見ても、何も?」
仁は、春名の顔をのぞき込んだ。
だが、春名の瞳は、戸惑いだけを映している。
「ぼくは仁です、先生」
「レン……」
春名が、口の中で、その名前を繰り返す。
「字は、人を愛するという意味の《仁》で、日本語読みでは『ジン』……」
「日本語読み? ――中国人?」
「中国系アメリカ人……。ファースト・ネームはカイル。中国名は仁暁春……。先生はいつも『仁くん』と呼んで――。思い出しませんか?」
「……」
「ぼくは先生の患者で――。まだ小さい頃から先生と一緒に……」
仁はすがるように言葉を続けた。
「君が、ぼくの患者?」
「情緒障害で……。ぼくは、最初は普通の学校に通っていて、そこにいた時に、学者がぼくのIQの高さを目に止めて、そういう子供たちを集めた学校に……。ぼくと同じようにIQが高かったり、『1=1+α』の能力開発の対象だったり……。ぼくは中学を卒業するまで――十歳までそこにいたんです。覚えているでしょう? 大きなマジック・ミラーをはめ込んだ教室で、先生はぼくを見ていたんです。学者たちのモルモットだったぼくを……。誰とも口を利かなくなったぼくを……」
「……。俺は……」
「思い出してください、先生。先生がぼくを忘れるはずがない! 先生はずっとぼくの側にいたんだっ。高校生の時も、大学生の時も、日本に来てからも、ずっと――」
他の何を忘れようと、春名が仁のことを忘れてしまうはずがないのだ。何があっても、仁のことだけは……。
「先生……。ぼくは仁です……。先生の秘書の仁です……」
「……」
「先生……」
「……すまない。俺には……」
「――」
気が狂いそうになるような刹那だった。
確信を否定する春名の言葉に、仁は呆然と瞳を見開いた。
心臓が激しく脈打っている。
手のひらには、爪が白くなるほどに食い込んでいる。
「もう……こんな思いは厭だ……。こんなことは全部嘘だあああ――――!」
胸が張り裂けるほどの叫びを上げ、仁は部屋の外へと飛び出した。
春名は、もう何も覚えてはいないのだ。仁の名前を呼ぶこともなく、もう仁を必要ともしていない。そして、もう仁の居場所はどこにもない。春名が思い出さなければ、仁の居場所は……。あの日からの仁の場所は、どこにも……。
0
参考文献
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
お気に入りに追加
36
あなたにおすすめの小説


ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。


百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる