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Karte.4 児童精神医学の可不可-他人
児童精神医学の可不可-他人 6
しおりを挟む梅雨のじめじめとした一日――。
夜になっても雨はやまず、相変わらず、じとじとと降り続いていた。
春名は自宅のマンションのリビング・ルームに入り、ドサっとロー・ソファにうつ伏せになった。
まるで死体である。
色数の少ないシンプルな内装で整えられた部屋の中は、磨き抜かれたフローリングの床を始めに、飾り気のない家具やライト・スタンド、さりげない調度の一つ一つにまで、住む人間の趣味の良さが現れている。
だが、それでも疲労までは取り除いてはくれない。
「仁くん。マッサージを頼む……」
と、疲れた声で呼びかける。
その春名の背中に、仁が、ドカっと勢いよく座り込んだ。華奢な少年とはいえ、小さな子供の頃とはやはり、違う。
「うわ……っ」
と、春名はその思いやりのなさに、呻きを上げた。が、その呻きは無視されることになった。
「あの子も結構、疲れてるでしょうねェ」
と、春名の声など聞こえていないように、仁が感慨深げに、グっと背中を圧迫する。
「抱いている俺の方が疲れる……」
乱暴な扱いに顔を顰めながら、今日も愚痴る。
「抱かれてる方だって疲れますよ」
「それはそうだろうが……」
あれから毎日、同じことを繰り返しているのだ。他人に無関心な子供――葉を膝の上に抱いて、何とか関係を持とうと。
だが、葉は相変わらず無表情で、名前を呼んでも応えを返さず、目を合わせることも、しない。そして、抱いたら抱いたまま、一時間そのままなのだ。後はプレイ・ルームを後にして、診察室――精神科病棟の春名の診察室へと戻って、春名はコーヒーを、葉はジュースを飲んで、おしまい。規則の厳しい児童病棟では通らない間食だが、精神科病棟は規則が緩い。それ故の解放である。
そして……動かない疲労、というものも、春名は充分に体験することになっていた。
「イタタ……っ。もっとお手柔らかに頼むよ」
グイグイと遠慮なく食い込む指先に、情けない顔で弱音を吐く。
「何甘えてるんですか」
それに構わず、仁は慣れた手つきでマッサージを続ける。
「もう年だ」
「まだ四捨五入すれば二十代に入りますよ。後一つで四十代に入りますけど」
「ムッ。そういう慰め方は嬉しくない」
「慰めなくても、先生は若いですよ。――モテることと頭のいいことが自慢じゃなかったんですか?」
「……。可愛げのない奴だ」
「何かいいましたか?」
「いやっ、別に」
春名は慌てて首を振った。今は逆らいたくない状況である。
「それならいいですけど」
――ったく……。
と、心の中で愚痴を零すだけに、止める。
小さい頃はもっと可愛げがあったような気がするのだが……。会ったばかりの頃はともかく……。
「でも、本当にあの子たちに付き合うのは大変ですよね」
しみじみとした仁の言葉に、春名はゆっくりと、目を暝った。
ほんの一、二時間の相手でも、ひしひし、とそれを感じるのだ。
「言うことを聞かない子供に腹が立つかい?」
「腹が立つはずですけど……」
仁は考えるように語尾を消し、
「何ていうか、普通の腹立ちと違って――。彼らは別に、人を困らせようとしてやっている訳じゃないですから、憎らしいとは思えないんですよ」
と、言葉を続ける。
春名は優しく表情を緩めた。
「母親も同じだ。彼らを邪魔者にして入院させた訳じゃない」
「……」
「彼らの世界は、こっちの世界のルールとは違うから、半端でない手間がかかる。例えば、君は『ままごと』をする時に、泥水でお茶を作って、飲んだフリをするだろう?」
「ええ」
「だが、彼らは違う。それでは納得しないんだ。本当のお茶を使って、本当に飲む。或いは、人形に本当に飲ませる。当然、人形は飲むことが出来ずに、お茶は服や床に零れる。その結果、母親は零れたお茶を拭って、濡れた服を着替えさせなくてはならない。もし、そのお茶がポットから注いだばかりの熱いお茶だったりすれば、急いで火傷を気遣わなくてはならない。――その子を愛していても、生まれたばかりの赤ん坊の世話と重なっては、どちらもきちんと面倒を見る、ということは不可能になる。葉くんの母親も同じだ」
春名は、今まで何度も見て来た家族の大変さを、口にした。下手をすれば、母親まで春名の『患者』になってしまいかねない環境なのである。
看病に疲れ、息子を轢き殺してしまう母親がいるように……。
「……はい」
仁は視線を伏せて、うなずいた。それでも、
「でも……」
と、何かが引っ掛かっている様子で、言葉を濁す。
「ん?」
「いえ……」
と、ためらうように、口を噤む。
「どうした? ぼくに話せないことかい?」
春名は訊いた。
「いえ、そういう訳じゃ……。ただ、この間から、何となく嫌な予感がしていて」
「嫌な予感? 葉くんのことで、か?」
「判らないですけど……。きっと、ぼくの思い違いです」
仁は曖昧な笑みで、言葉を消した。
だが、それは本当に思い違い、なのだろうか。
春名は、仁が否定してしまった言葉に、視線を細めた。仁は確かに『何か』に不安を感じているのだ。
「すみません、先生。余計な心配を――」
「いや、気をつけるよ。君の言うことを信じなかったことなどないだろう?」
「……。でも、信じたくないですよ」
仁は辛い表情で、瞳を伏せた。
「ぼくには、もう本当に何も判らないんです。時々、フッとそう思うだけで……」
「ああ、解っているさ」
春名は穏やかな眼差しで、笑みを見せた。
――嫌な予感……。
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参考文献
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
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