可不可 §ボーダーライン・シンドローム§ サイコサスペンス

竹比古

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Karte.3 沈黙の可不可-声

沈黙の可不可-声 18

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 夜には余りにも静かな別天地である。――いや、この場合の『静か』は『暗い』という言葉と同じ意味であったかも知れない。本来の夜の色をした別荘地は、ネオンとは無縁の場所だった。
 春名は空いたスペースに車を止め、リア・シートを振り返った。
「着いたよ、ランディ」
 と、熟睡している幼子に声をかける。
 ランディはまだ眠たげに目を擦り、茫としながら起き上がった。
 ぽー、としたその表情も、やはり、可愛い。
「別荘だよ」
 仁は先に車を降り、リア・シートのドアを開いた。ドアの側の風船を取り、続いてランディを外へと促す。
 外の空気は、眠気が醒めるほどに冷ややかで、都心と比べると随分寒い。
「はい、風船」
 ランディが車の外に降り立つのを見て、仁は大きな風船を手渡した。が、その時、不意に吹き抜けた潮風に、風船が空へと吹き飛ばされた。
「あ――」
 捕まえる間もなく、風船は自身の力と風の流れを素直に受け、手の届かない場所へと飛んで行く。
 夜を彷徨う風船は、そのまま風に流されて、柵の向こうに立つ一本の木に引っ掛かった。
 それを見て、ランディが、眉を落として唇を結ぶ。泣き出してしまいそうな表情だった。
「あ……。ごめん」
 仁はそれ以上の言葉もなく、謝った。
 抗議も出来ず、じっと涙を堪えているランディの姿は、何を見るより痛ましい。
「俺が取ってやろう。あそこなら柵に乗れば手が届く」
 春名はランディの頭を撫でて、枝に引っ掛かる風船の方へと翻った。
「危ないですよ! 落ちたらどうするんですか。柵の向こうは崖ですよっ」
 仁は目を瞠って、春名を止めた。
「だが、仁くんでは届かないだろう?」
「そんなことくらい解ってます」
「じゃあ、梯子を借りて来てくれるかい?」
「もちろんです」
 春名の言葉に、仁はすぐに別荘へと翻った。
 また風が吹き抜け、枝に絡まる風船を、ふわり、と揺らす。今にも枝から外れて飛んで行きそうな雰囲気である。
 ランディも、不安げに指を結んでいる。
 このままでは、風船は梯子が来るまでに飛ばされてしまうだろう。今でさえ、引っ掛かっているのが不思議なくらいなのだ。
 春名は風に乱れる髪をかき上げ、柵の方へと足を向けた。
 腰ほどの高さの木の柵は、安全と危険の境を示している。
 ランディが心配そうな顔で後に続く。そして、春名の上着の裾を握り締め、ブンブンと首を横に振る。
 まだ九つの子供だというのに、我が儘を言わず、春名の心配をしてくれているのだ。泣いて風船をねだってもいい年だというのに、それをしない。
 春名は優しく瞳を細め、ランディの頭を軽く撫でた。が、上着をつかむ指は、離れない。
 ――荒療治……。
「仁くんには内緒だぞ」
 そう言って、春名はランディのつかむ上着を脱ぎ捨てた。
 ランディが、すがるように、瞳を揺らす。
 その視線を傍らに、春名は一つの柵へと足を掛けた。
 波の音が、大きく、なる。まるで、両手を広げて待ち望んでいるかのように。
 そんな悩ましい誘いの中で体重を掛けると、ギシ、っと柵が軋みを告げた。
 ランディが、ハッ、として春名の上着を抱き締める。
 こういう死に方も悪くはないが、今はごめんである。
 春名は、柵の上に乗り移り、眼下に海を見下ろした。が、それも一瞬のことで、揺らぎも見せずに手を伸ばし、枝に引っ掛かる風船の紐をつかみ取る。刹那、柵が、ミシ、っと音を立てた。
「!」
 ランディの体が、凍りつくように、堅く強ばる。が、声はない。
 荒療治、では無理なのだろう。もちろん、本気で落ちてみれば判らないが、それだけは春名もごめん被りたい。
 柵は壊れることもなく、春名は風船を手に軽い動作で降り立った。
 ランディの強ばりがホッと解けた。
「はい、風船だ」
 と、飛ばされずに済んだ風船を手渡すと、今度は、憧憬の眼差しが持ち上がった。
 どうやら、春名は英雄として崇められているらしい。
 そんな熱い視線を受けながら、春名は後ろの柵に凭れ掛かった。刹那、柵が、バキ――っと音を立て、春名の体はそのまま後ろへ傾いた。
 逆らいようもない、突然の出来事である。
 崖へと落ちる春名の姿に、ランディの瞳が、戸惑いに、変わった。
 まだ何が起こったのか、理解出来ていなかったのだろう。
 そして、その表情は、もう春名には見えてはいなかった。
 落ちる、という感覚ではなく、体はスゥと浮いたような感じでそこにあった。そして、以外に冷静だった。ランディの兄も、ランディを助けてから自分は波に飲まれたのだったな、と、そんなことを考えたりもしていた。
 風船が、また風に乗って、舞い、上がる。


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参考文献
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
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