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Karte.3 沈黙の可不可-声
沈黙の可不可-声 10
しおりを挟む「――以前に立ち入るなと言われたけど、あなたとレンくんはどういう関係なの?」
窓の外の夜を見つめ、泣けない代償を求めるように、笙子は訊いた。
「……」
逃げることも出来ず、春名はゆっくりと一度、瞬きをした。
「ただの医者と秘書ではないのでしょう? 一緒に暮らして、彼はあなたの身の回りのことまで全てを任されて。もちろん、彼は子供でも優秀な秘書だわ。――でも、身内でもなく、仕事仲間でもなく……。恋人なの?」
窓ガラスを見つめたままでの、問いかけだった。
恋人だ、と春名が言っても、彼女はそれを信じただろう。
あの夜のコンビニエンス・ストアでの事件を知っているのだから、そんな簡単な言葉で片付けてしまえても、不思議ではない。
『先生に触らないでくださいっ!』
そう言って、きつい口調で笙子を睨みつけた仁のことを、忘れてしまえるはずもない。そして、その仁の姿は、今の笙子の問いかけを片付けてしまうのに、都合のいいものでもあるし、春名に取っても、仁を恋人として片付けてしまった方が、ずっと楽なことは間違いない。
だが――。
「……USAにいた時、俺の患者が死んだ。何度も入退院を繰り返していた精神分裂病の患者だ」
蒼い夜を見つめながら、春名は言った。
「……自殺?」
「いや。――もちろん、それ以前に自殺未遂を起こしたことはあったが。その懸念も消えて、何度目かの退院を迎えた日のことだ。彼は病院の玄関に立って、母親の迎えを待っていた。そして、母親が車に乗って迎えに来た。だが、母親はスピードを落とさず、真っすぐに彼の方へと突っ込んで来た。……轢き殺したんだよ。自分の息子を」
淡々とした春名の言葉に、笙子は瞳を見開いた。
「当時、俺は酷くプライドが高かった。なまじ出来ただけに、余計……。患者のことも、家族のことも全て解っていると思い込んでいた。だが、実際には何一つ解ってはいなかった。長年、分裂病患者の息子を抱えて来た家族の気持ちも、分裂病者たる患者の苦しみも……。俺たち医者は、彼らを常識の世界へ連れ戻すために治療をする。その短い時間だけ顔を合わせていればいい。だが、家族は共に生活をしなければならない。何度も再発して、入退院を繰り返す息子と。その生活がどんなものなのか、俺は考えたこともなかった。俺は、彼が治れば母親は喜び、歓待すると思っていた。だが……母親は、彼を轢き殺すほどに疲れていた……」
「春名……」
「その事故の時は冷静だった。俺は取り乱すことも慌てることもなく、すぐにあらゆる手配をして、震えもしない指で指示を出した。誰も俺以上の対処など出来なかっただろう。驕りでも何でもなく、それはきっぱりと言い切れる。俺のプライドの高さがそうさせた。だが、何日かして……幻覚が見えるようになった」
「――」
幻覚――。彼のように賢明で冷静沈着な精神科医が、狂気の病に取り憑かれていたなど、誰が信じるだろうか。存在しないものを見る――という、そんな0=1の世界に堕ちていたなど……。
「処置の甲斐もなく死んでしまった患者と、自殺した母親の幻覚だ。目を暝ると幻聴が聞こえた。毎日のように、すがるような瞳で俺を見つめる二人の幻覚が――」
「もういいわ! ごめんなさい。もう……」
春名の言葉を遮るように、笙子は細い腕で抱きついた。
精神科医ですら、常に賢明だとは限らないのだ。生涯、自分は賢明だ、と言い切る精神科医に、患者を癒すことなど出来はしない。
「……。今はもう何ともない」
春名は静かな口調で、言葉を続けた。
「この間のコンビニでの出来事には、平静でいられなかったが――。仁くんがいてくれた。USAでも、彼がいたから俺は狂うこともなく立っていられた」
「……」
「仁くんは恋人でも何でもない。恋人の代わりはいても、彼の代わりはいない。恋人以上の存在だ」
夜が色を変えて、辺りを、染めた。
恋人以上……。仁は、春名に取って、何者にも代えられない存在なのだ。恋人などという有り触れた存在ではなく、況してや、ただの秘書でもない。適当な言葉に当てはまらない――言葉では言い表すことの出来ない絶対的な存在……。
波の音を聴きながら、春名は煙草を銜えて火を点けた。
笙子が静かに部屋を出る音が聞こえた……。
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参考文献
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
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