可不可 §ボーダーライン・シンドローム§ サイコサスペンス

竹比古

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Karte.3 沈黙の可不可-声

沈黙の可不可-声 4

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 夜遅くに大手を振って歩けるのは、日本のいいところである。もちろん、それ所以に、日本人が海外へ出ると間抜け扱いされるのだろうが。
「何だかんだ言っても、この辺りの夜は静かよねェ」
 星空を見上げて、笙子が言った。その尻から、今の言葉をぶち壊すように、一台の車が凄まじいスピードで走って来る。至って変わりのない赤のクーペである。暴走族とも思えない。
「危ないわね、あんなスピードで」
 眉を顰め、笙子が憮然とした顔で唇を歪めた。
 車が、夜の通りを駆け抜ける。
 窓に映ったのは、四十代後半の婦人であった。
 チラ、っと見えたその姿に、春名は訝しい思いで眉を寄せた。
 見覚えがあったのだ。
 車に乗っていたその婦人は、さっきまで、コンビニエンス・ストアの前で、あの少年たちを説得していた母親ではなかっただろうか。
 騒ぎはすぐに伝わって来た。
「おい、何だよ、あれ!」
「こっちに来るぞ!」
「危ないっ。逃げろ――!」
 コンビニエンス・ストアの前で、少年たちが、慌てふためいた声で、逃げ惑った。
 春名は、ハッ、と後ろを振り返った。
 車はスピードを落さずに、少年たちの中へと突っ込んで行く。次々に少年たちを巻き込みながら、コンビニエンス・ストアのガラスを突き破る。
 それは、目を瞠る光景であった。
 激しい破壊音と、飛び散るガラス。
 華やかなまでに美しい破壊は、ナチス・ドイツの狂気、『水晶の夜』を思わせた。ユダヤ人商人の店のガラスが砕かれ、夜の中に水晶のごとくきらめいた、という、あの恐怖の夜である。
 春名は、その光景を目の当たりに、呆然と通りに立ち尽くした。
 血まみれで呻きを洩らす少年たちと、ハンドルに突っ伏して派手なクラクションを響かせる狂気の母親。
 それは、いつか見た光景――いや、いつかではなく、あの日の光景ではないだろうか。
「ウォーレン……」
 春名は、口の中で、一つの名前を、呟いた。
「先生?」
 仁の声が耳に届いた。――いや届いていたのだろうか。




『ドクター……。ドクター.ハルナ……。ぼくはどういう風に生きればいいんですか? 他の人は当たり前に生きているのに、ぼくにはその当たり前のことが解らないんです』
『当たり前のこと、とは?』
『ぼくには生きるということが出来ないんです』
『何故?』
『ぼくの母は本当の母ではないので。いつもぼくを邪魔だというように見るんです』
 邪魔だというように見るんです……。
 その分裂病患者が、発病以来もち続けていた家庭否定妄想、貰い子妄想。
『それはいつ頃から、ウォーレン?』
 ウォーレン……。
 ウォー……。
 頭の中に、何度もその名前が交差する。
 また、彼の声が、聞こえ、始める。
 また、彼の姿が、見え、始める。




「先生? 春名先生?」
 声が聞こえた。
 だが、それは誰の声だっただろうか。
 もう、何も考えられない。
 何も視界に入らない。
 頭の中に響く声に、春名は、虚空の一点を凝視した。
「どうしたの? 顔色が悪いわ」
 笙子が首を傾げて、蒼白な面をのぞき込む。
「先生」
 仁の呼びかけに応えることも出来なかった。
 口は、知らない間に、何か言葉を呟いていた。それは、誰かの名前であったかも知れないし、何の意味もない言葉であったかも知れない。
 額には、冷たい汗だけが滲んでいた。
「レンくん、彼はどうしたの?」
 笙子の心配げな眼差しが、仁へと向く。
「――。何でもありません。先生は疲れてるんです。だから貧血を。――帰りましょう、先生」
「ちょっと、レンくん、彼は――」
 笙子の手が、仁を越えて、春名の背へと、スッと伸びた――刹那――。
「先生に触らないでくださいっ!」
 きつい視線が突き刺さった。
 辺りが、しん、と静まり返る。
 語気の強さと激しさに、夜が張り詰め、凍りつく。それほどの勢いを持つ言葉だったのだ。
 仁は少し視線を伏せ、
「すみません……。先生は本当に疲れているんです」
 と、申し訳なさそうに、視線を伏せて歩き出した。
 マンションは、もうすぐそこである。
 光に誘われる虫のように、人工の光に彩られるエレベーター・ホールへと、入り込む。
 無気質な空間が冷え冷えと広がるその館内は、近代的な都市の顔でもあっただろう。
 ルーム・フロアでエレベーターを降り、生活の匂いのする暖かい部屋へと足を入れる。
 氷の解けたロック・グラスだけが、柔らかい光と共に、二人の帰宅を出迎えた。
 春名は、仁に促されるままに奥の寝室へと足を運び、広いベッドに横たわった。
 傍らで仁が、その様子を見守っている。
 時間が、緩やかに、溶けて行く。
 どれくらい経っただろうか。
「……仁くん」
 春名は、天井を眺めて口を開いた。
「はい、先生」
「俺は正気か?」
「はい」
「そうか……」
「……」
「あの車に乗っていたのは、少年たちの母親だった……」
 春名の言葉に、仁がわずかに表情を変えた。
「さすがに血の気が引いたよ」
「先生……」
「そんな顔をしなくてもいい。心配かけて悪かった」
 春名は軽く、笑みを見せた。
「……。ぼく、今日はここで寝ますから」
「――ああ」


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参考文献
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
感想 11

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