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Karte.3 沈黙の可不可-声
沈黙の可不可-声 1
しおりを挟むPCには、篠田悟との会話がディスプレイされていた。
「この間、母が来たので、『もういい?』と訊いたら、『まだ早いから、もう少し待ちなさい』と言われました」
「何がもういいんだい?」
「ぼくが海を好きだということです」
「どういう意味?」
「海が哀しくて切ないので……。早いと冷たいでしょう?」
「海水浴のこと?」
「人が来たり、出て行ったりすることです」
「海から?」
「髪が白髪になったり、髭が生えたりするので」
「それは海とどういう関係?」
「クラゲが出るということです。海水は辛いので……」
……。
分裂病の患者は、一体何を考えているのだろうか。もし、それが解れば――。いや、それを解するためには、自分も分裂病になるしかないのだろう。
春名は画面の文字を見つめながら、ロック・グラスを傾けた。
一流企業に務めるエリートだったその青年が、自殺未遂を起こして、春名の務める総合病院に運ばれて来たのは、数カ月前のことである。
外科での治療を終え、精神科へと回されて来た彼を、春名は『精神分裂病』と診断した。――いや、今は統合失調症と呼ばれている。
ここはその病院ではなく、春名の自宅たるマンションの一室である。
外はすでに、夜。
シンプルな調度でまとめられた部屋の中は、いつも心地よく整理され、磨き抜かれたフローリングの光沢も、色数の少ない内装も、住む人間の趣味の良さを窺わせている。
春名は、総合病院の精神科に務める精神科医で、まだ三十代半ばの若さにして、その実績を認められた精神分析学者である。大学時代からUSAで知識と実績を積み上げ、二年ほど前に日本へ戻って来てから、今の病院に務めている。彼の経歴なら、総合病院の一角にある精神科ではなく、権威ある精神病院にも快く受け入れられたであろうし、USAで開業しても成功しただろう。もちろん、日本へ戻らずUSAの研究室にずっと残っていても良かったのだ。
だが……。
PCの画面をじっと見据え、春名はその面貌を、少し、歪めた。
USAでも埋もれない長身と、広い背中に漂うものは、暗く冷たい影だったかも、知れない。
だからこそ、誰もがこんな考えを、持つ。
もしかすると、日本は彼にとって一時しのぎの故郷でしかなく、長く留まる積もりのない国ではないのだろうか、と。開業もせず、日本での地位を望まないのも、そのせいではないのか、と……。
しばらくすると、バスルームのドアが開き、愛らしい少年が、姿を見せた。十七、八歳だろう。端麗に整った面貌と、湿りを帯びて瞳にかかる細い髪は、華奢でありながらしなやかに形造られた肢体と共に、彼を繊細に彩っている。
静けさの似合う今の時間に相応しい少年、である。
彼は春名の秘書で、仁、と言った。まだあどけなさを残すほんの少年だが、春名の有能な片腕であることは、間違いない。
「それ、随分前のですよ」
と、濡れた髪を拭いながら、春名の開くPCの画面を覗き込む。そこには、さっきから春名が眺めている『分裂病患者』の症例があった。
「ああ」
春名は、短く応えて、画面を消した。
「……何か気になることでもあったんですか?」
「ん? 何故だ?」
「家に帰ってまで珍しいですから」
人間、いつもと違うことをするには、それなりの理由がある、という訳だ。
「確かに俺は、家に帰ってまで患者のことを気に掛けるような献身的な医者ではないな」
と、ロック・グラスの氷を、鳴らす。
「患者のことを考えていたのでなければ、何か他のことを考えていたんですか?」
仁の心配げな問いが続いた。
「……。他のこと、か」
どこか曖昧な時間だった。
二人ともに、グラスの底に映る言葉を知っていながら、黙っている。――そんな。
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参考文献
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
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