可不可 §ボーダーライン・シンドローム§ サイコサスペンス

Karte.２ 超心理学の可不可－硝子

超心理学の可不可－硝子 ３

「あるところに一人の医者がおりました。その医者が渡り廊下を歩いていた時、一人の女の子とぶつかりました。その時、医者のシャツに女の子の口紅が付いてしまいました。申し訳なく思った女の子は、すぐに洗うので貸してくださいと言いました。以上」
「――で、その子に渡したんですか？」
「俺はいいと言ったんだ。替えのシャツがあるから、すぐに洗う必要がないことまで説明した。それでも、その子が泣きそうになって言うから、仕方なく……」
「どこの誰ですか？」
「さあ」
「さあ、って――。仕立て上がって来たばかりのシャツですよっ！　日本じゃ先生のサイズに合う服が少なくて、この間見に行って、気に入ってオーダーしたのにっ」
「別に盗られた訳では――」
「盗られてなくても、ネームの入ったシャツを不用心に渡すなんてっ。……よっぽど可愛い女の子だったんでしょうね？」
　仁は、これ以上はない不機嫌な顔付きで、春名を見上げた。
　春名としては、グッ、と言葉に詰まるしかない状況である。何しろ、本当に可愛い少女だったのだから。
「まあ、確かに可愛いかったが。まだ十五、六歳の子供だ。下心も起きない」
　と、軽く言う。が、仁の言葉は可愛くなかった。
「向こうが相手にしませんよ」
　と、つん、と鼻を持ち上げる。
　ここで言い返さない人間はいないだろう。
「最近の子は、大人の男に魅かれるんだ」
　その言葉に、そっぽを向いていた仁が、待ってました、と言わんばかりに振り返った。
「やっぱり下心があったんじゃないですかっ」
　と、白い頬を膨らませ、春名の言葉を睨みつける。
　もう否定は出来ない。
「あー、えーと。そういう誘導尋問は、人間の性格を歪めて――」
「疚やましくなければ引っ掛かりませんよ」
「ムッ。可愛い女の子を見て可愛いと思うのは当然の反応だろう？　俺は、泣き出されるよりもいいだろうと思って、だな――。だいたい、シャツ一枚でそんなに膨れることはないだろう？」
　些細な発端に疲れて言ってしまったことが、いけなかったのだ。
「ああそうですか。それなら、これからはその女の子に全部洗ってもらってください」
　仁の眼差しが、さらにひと際険しくなり、くるりと部屋から翻る。
「え――」
「ぼくは先に帰りますから」
「あ、仁くん――っ」
　春名は、慌てて後を追いかけた。
　いつもそういう切り札を使うのだ、その少年は。
　洗濯はもちろん、家事、雑用のすべてを仁に頼っている春名としては、彼の機嫌を損ねることは不都合極まりない。
　スタスタと先を歩く仁に並び、声をかける。――いや、声をかけようとした時、仁が、ピタリ、と足を止めた。
　その視線の先には、十五、六歳の愛らしい少女が立っていた。ふわりとカールした長い髪と、大きな瞳をした美少女である。唇には春らしい色のリップを引き、お人形のように頬を染めて立っている。
「ああ、君は……」
　春名は、その少女を見て口を開いた。見覚えがあった、というよりも、まだ忘れるほどの時間が経っていない。
「あれからすぐにクリーニングに出したんです。先生が帰られる時間に間に合うように頼んで」
　と、少女は、丁寧に包装されたシャツを、差し出した。口紅がついてしまった例のシャツである。
　タイミングが良かったのか悪かったのかは、まだ今の地点では判断出来ない。――が、少なくともシャツが無事に戻って来たことは、喜ばしいことであっただろう。