上 下
27 / 350
Karte.1 自己愛の可不可-水鏡

自己愛の可不可-水鏡 26

しおりを挟む

「俺には……殺せなかった……」
 冬樹が言った。
「俺たちが死ぬ必要なんかないんだ。俺たちを引き離そうとする人間が死ねばいい」
 彼の憎しみは、全て春名へと向かったのだ。
「……。放しなさ……い……」
 血の気が引くような痺れの中、春名は、腹部に突き立つナイフから、冬樹の手を剥ぎ取った。
「く……っ」
 冷たい汗が、滲み出る。
 呼吸が少し、薄くなった。
 息を吐き出し、春名は椅子に腰を降ろした。
 ドアにノックが届いたのは、その時だった。
 部屋が緊張の色に、張り詰める。
「後に……してくれ……。忙しい」
 春名は、ドアの外へと声をかけた。
 だが、外に立つ人物は諦めなかったようで、ドア越しに再び声が響く。
「ぼくです、先生。沢向珠樹です」
 声は言った。
 ――珠樹……。
 この場に一番、現れて欲しくはない人物であっただろう。
 春名は冬樹の方へと視線を向けた。
「手を……洗って来い……」
 と、血に濡れた手を見て、奥の洗面台を視線で示す。
 冬樹は微動ともせず、ただ無言でそこにいた。
 声はドアの外から、続いた。
「先生? 話したいことがあるんです。兄がいなくて。それで……。ぼくはさっき目を醒ましたところで……。入りますよ、先生?」
 珠樹が遠慮がちにドアを開く。そして、目の前の光景を見て、目を瞠った。
 腹部を血に染めて椅子に凭れる春名と、その前に立ち尽くす冬樹の姿は、そうせざるをえないものだったのだ。
「これ……は……?」
「ドアを……閉めてくれ……」
 春名は言った。
「冬……」
「早く!」
 きつい口調で、二度目を放つ。その言葉に、珠樹はやっと気づいたように、ドアを閉じた。




「これは……冬樹が……? 冬樹が先生を……?」
「いや――」
「俺が刺したんだ」
 冬樹が言った。
「――! どうしてっ! ぼくに何の薬を飲ませたんだ、冬樹! ぼくは昼過ぎまでずっと目を醒まさなかった。それで、目が醒めたら冬樹がいなくて」
 目を醒ました時、家には冬樹の姿だけでなく、入院のために用意して置いたスーツケースも消えていたのだ。それを怪訝に思って、ここへ来た結果が……これだった。
「俺を殺せよ、珠樹……」
「……え?」
「俺を殺せば、おまえは俺から解放される」
 優しい眼差しで、冬樹は言った。それは、いつも珠樹に見せている、優しい兄の姿でもあった。
「冬樹……?」
「俺は、おまえに殺されたい……」
「何を言って――。今は先生を――」
 珠樹の言葉が続くよりも先に、廊下の向こうに足音が響いた。
 いきなり、バタン、っとドアが開き、愛らしい少年が姿を見せる。
「大変です、先生っ! 新聞に――」
 部屋に飛び込んで来たのは、仁だった。
 そして、珠樹と同様、目の前の光景を見て、凍りつく。
「先生……?」
 と、春名の腹部から滴る血を見て、呆然と呟く。
 春名はわずかに、笑みを、見せた。
「先生――っ!」
 小柄な肢体が、手に持つ新聞をその場に投げ捨て、床を蹴った。
「すぐにストレッチャーを――」
「騒ぐな……。これは……事故だ……」
 内線を取ろうとする仁の腕をつかみ取り、春名は気丈な言葉を吐き出した。
「……先生?」
「事故だ……。俺の驕りで……。俺が助けようなどと……驕っていたから……」
「喋らないでくださいっ。出血が――」
「事故だ……。仁くん……」
 春名は同じ言葉を繰り返した。
「……解りました」
 仁は唇を噛み締めるようにして受け応え、冬樹の方へと視線を向けた。
「これが事故でも、彼らの両親が事故で済むかどうかは断言出来ませんよ」
 と、冷ややかな口調で、春名の傷口にありったけのガーゼを当てる。
「く……っ。どういうことだ?」
 春名は――いや、春名でけでなく、珠樹もその言葉を聞いて、戸惑いを浮かべる。
「新聞に載っていました。写真家の沢向順一郎と、フラワー・アーチストの妻が遺体で発見された、と」
 放り投げた新聞を見て、仁が言った。
「遺体で……」
 春名は、冬樹の方へと視線を向けた。
 珠樹もまた、同じように冬樹を見つめている。
 冬樹は、少しだけ笑みを作って、そこにいた。
「冬樹……? 殺したのか? 父さんと母さんを……」
 珠樹の声は、震えていた。
「愛してる、珠樹……。俺たちが一つの卵だった頃……。あの頃が一番幸せだった……。還ろう、珠樹……。一つの卵に。幸せだった頃に……」
 冬樹の手が、穏やかな眼差しと共に、珠樹へと伸びる。全ての終局を見るような眼差しだった。
 そして、珠樹も……。
「ああ、冬樹。還ろう……」
 水面に映るもう一人の自分が、同じ表情で、その手を受け取る。
 それは、思いの届かなかったナルキッソスよりも、よほど幸福な姿であったに、違いない……。



 ――先生、ぼくたちは幸福だったのに、異常だったのですか?
 ――周りの身勝手な人たちは、不幸そうなのに正常だったのですか?
 ――教えてください、春名先生……。




                   完





   ※次回『Karte.2 超心理学の可不可-硝子』



しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。 でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。 けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。 同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。 そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...