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Karte.1 自己愛の可不可-水鏡
自己愛の可不可-水鏡 26
しおりを挟む「俺には……殺せなかった……」
冬樹が言った。
「俺たちが死ぬ必要なんかないんだ。俺たちを引き離そうとする人間が死ねばいい」
彼の憎しみは、全て春名へと向かったのだ。
「……。放しなさ……い……」
血の気が引くような痺れの中、春名は、腹部に突き立つナイフから、冬樹の手を剥ぎ取った。
「く……っ」
冷たい汗が、滲み出る。
呼吸が少し、薄くなった。
息を吐き出し、春名は椅子に腰を降ろした。
ドアにノックが届いたのは、その時だった。
部屋が緊張の色に、張り詰める。
「後に……してくれ……。忙しい」
春名は、ドアの外へと声をかけた。
だが、外に立つ人物は諦めなかったようで、ドア越しに再び声が響く。
「ぼくです、先生。沢向珠樹です」
声は言った。
――珠樹……。
この場に一番、現れて欲しくはない人物であっただろう。
春名は冬樹の方へと視線を向けた。
「手を……洗って来い……」
と、血に濡れた手を見て、奥の洗面台を視線で示す。
冬樹は微動ともせず、ただ無言でそこにいた。
声はドアの外から、続いた。
「先生? 話したいことがあるんです。兄がいなくて。それで……。ぼくはさっき目を醒ましたところで……。入りますよ、先生?」
珠樹が遠慮がちにドアを開く。そして、目の前の光景を見て、目を瞠った。
腹部を血に染めて椅子に凭れる春名と、その前に立ち尽くす冬樹の姿は、そうせざるをえないものだったのだ。
「これ……は……?」
「ドアを……閉めてくれ……」
春名は言った。
「冬……」
「早く!」
きつい口調で、二度目を放つ。その言葉に、珠樹はやっと気づいたように、ドアを閉じた。
「これは……冬樹が……? 冬樹が先生を……?」
「いや――」
「俺が刺したんだ」
冬樹が言った。
「――! どうしてっ! ぼくに何の薬を飲ませたんだ、冬樹! ぼくは昼過ぎまでずっと目を醒まさなかった。それで、目が醒めたら冬樹がいなくて」
目を醒ました時、家には冬樹の姿だけでなく、入院のために用意して置いたスーツケースも消えていたのだ。それを怪訝に思って、ここへ来た結果が……これだった。
「俺を殺せよ、珠樹……」
「……え?」
「俺を殺せば、おまえは俺から解放される」
優しい眼差しで、冬樹は言った。それは、いつも珠樹に見せている、優しい兄の姿でもあった。
「冬樹……?」
「俺は、おまえに殺されたい……」
「何を言って――。今は先生を――」
珠樹の言葉が続くよりも先に、廊下の向こうに足音が響いた。
いきなり、バタン、っとドアが開き、愛らしい少年が姿を見せる。
「大変です、先生っ! 新聞に――」
部屋に飛び込んで来たのは、仁だった。
そして、珠樹と同様、目の前の光景を見て、凍りつく。
「先生……?」
と、春名の腹部から滴る血を見て、呆然と呟く。
春名はわずかに、笑みを、見せた。
「先生――っ!」
小柄な肢体が、手に持つ新聞をその場に投げ捨て、床を蹴った。
「すぐにストレッチャーを――」
「騒ぐな……。これは……事故だ……」
内線を取ろうとする仁の腕をつかみ取り、春名は気丈な言葉を吐き出した。
「……先生?」
「事故だ……。俺の驕りで……。俺が助けようなどと……驕っていたから……」
「喋らないでくださいっ。出血が――」
「事故だ……。仁くん……」
春名は同じ言葉を繰り返した。
「……解りました」
仁は唇を噛み締めるようにして受け応え、冬樹の方へと視線を向けた。
「これが事故でも、彼らの両親が事故で済むかどうかは断言出来ませんよ」
と、冷ややかな口調で、春名の傷口にありったけのガーゼを当てる。
「く……っ。どういうことだ?」
春名は――いや、春名でけでなく、珠樹もその言葉を聞いて、戸惑いを浮かべる。
「新聞に載っていました。写真家の沢向順一郎と、フラワー・アーチストの妻が遺体で発見された、と」
放り投げた新聞を見て、仁が言った。
「遺体で……」
春名は、冬樹の方へと視線を向けた。
珠樹もまた、同じように冬樹を見つめている。
冬樹は、少しだけ笑みを作って、そこにいた。
「冬樹……? 殺したのか? 父さんと母さんを……」
珠樹の声は、震えていた。
「愛してる、珠樹……。俺たちが一つの卵だった頃……。あの頃が一番幸せだった……。還ろう、珠樹……。一つの卵に。幸せだった頃に……」
冬樹の手が、穏やかな眼差しと共に、珠樹へと伸びる。全ての終局を見るような眼差しだった。
そして、珠樹も……。
「ああ、冬樹。還ろう……」
水面に映るもう一人の自分が、同じ表情で、その手を受け取る。
それは、思いの届かなかったナルキッソスよりも、よほど幸福な姿であったに、違いない……。
――先生、ぼくたちは幸福だったのに、異常だったのですか?
――周りの身勝手な人たちは、不幸そうなのに正常だったのですか?
――教えてください、春名先生……。
完
※次回『Karte.2 超心理学の可不可-硝子』
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