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Karte.1 自己愛の可不可-水鏡

自己愛の可不可-水鏡 16

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 ゆったりとしたソファに腰を下ろし、春名は銜えた煙草に火を点けた。
 沢向珠樹が病院を抜け出してから、すでに数日が経っている。今日まで何の連絡も入らず、帰国しているはずの両親からも、一度として連絡は入らない。会いに訪れる様子も、全くない。そして、春名から電話を掛けても、常に不在のままであった。
「お茶です」
 考え込む春名の前へと、紅茶のカップが、コトリ、と乗った。
「ああ」
 香りのいいそのお茶は、仁が入れてくれたものである。
 家事全般――何もしない春名を見かねて、何でもするようになってしまった、というのが正直なところかも知れない。
「さっき、電話を掛けて来ました」
 向かいのソファに腰を下ろして、仁が言った。が、その言葉には、春名の関心を引くためか、肝心な部分が抜けている。
「電話?」
「イタリアへ」
 仁は言った。
「それで?」
「沢向冬樹は、ミラノでのショーを急病で降りたそうです」
「――」
「弟を連れ出したのは、兄です」
 予期できないことではなかったはずだった。
 だが、仕事を持つ者が、その仕事を簡単に放り出して戻って来るなど――。そんなことをすれば、もうこの先、仕事は回って来ないかもしれないと言うのに。
 それなのに……。
「なるほど。兄弟では誘拐にもならないな」
 あの日、珠樹はこう言ったのだ。
『すぐに冬樹が来てくれる……』
 あれは、珠樹一人の想いではなく、冬樹の想いでも、あったのだ……。
「やっぱり一人だけ診るのは無理ですよ。特に、家族療法も行えない患者を」
 仁が不満を込めて瞳を細める。
「承知の上だ」
「それならどうして――」
「あの子は繊細で聡明な青年だ。医者の驕りでも何とかしてやりたい、と思ってな」
「……」
「もちろん、兄にも一人の人間としての自覚を持たせなければならない。……ナルシズムは悪い病気ではない。その特徴を別の方へと持って行けば、天才と呼ばれるほどの才気を見せる。もともとあの二人にはその素質があるんだからな」
「解ってます。ただでさえ人目を惹く二人で、兄の方はすでに、かなりの注目を浴びるモデルですから。自己愛的ナルシスティックな人格を満足させてくれるピッタリの仕事で」
「ああ。だが、弟がいるせいで、それを簡単に放り出して、他人に迷惑をかける。そして、弟の方は、そんな兄がいるせいで、本来、自分自身が持っているはずの才能を開くことが出来ずにいる。互いに一人の人間だと認めない限り、あの二人は成長しない」
 病気は、悪いものばかりではあり得ない。個性という呼び方をしてもいいほどに、その存在を際立たせるものでもある。
 そして――、珠樹を連れ戻すにせよ、冬樹も含めて治療を施すにせよ、このまま放って置く訳にはいかない。
「帰国しているのなら丁度良い。一度、兄の方にも会ってみるか」
 春名は、煙草を潰して、席を立った。
「弟を連れ戻すんですか?」
「取り敢えずは話だ。――広尾だったな?」
「ええ。今、住所を……」
「ああ」
 仁が住所をメモする間に、春名は二人の城へと電話を入れた。
 耳に届く言葉は、いつも同じ――。二人はミラノへ言っている、と、留守番電話が淡々と告げる。
 受話器を置き、春名は仁から受け取ったメモを片手に、広尾へと車を走らせた。
『すぐに冬樹が来てくれる……。ぼくが心配だから』
 心配だから……。
 本当にそうなのだろうか。冬樹が心配しているのは、頼りない珠樹のことではなく、その珠樹がいなくなった時、自分が一人、取り残されてしまうことではないのだろうか。



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